いざん》親《まのあた》りここに見る。我が身は釋迦佛にあらず、天台大師《てんだいだいし》にてはなし。然れども晝夜《ちうや》に法華經をよみ、朝暮《てうぼ》に摩訶止觀《まかしくわん》を談ずれば、靈山淨土にも相似たり。天台山にも異ならず。但し有待《うたい》の依身《いしん》なれば、著《き》ざれば風《かぜ》身《み》にしみ、食《くは》ざれば命《いのち》持《も》ちがたし。燈《ともしび》に油をつがず、火に薪を加へざるが如し。命いかでかつぐべきやらん。命《いのち》續《つゞ》きがたく、つぐべき力《ちから》絶《たえ》ては、或は一日乃至五日、既に法華經|讀誦《どくしよう》の音も絶へぬべし。止觀《しくわん》の※[#「窗/心」、第3水準1−89−54]《まど》の前には草しげりなん。かくの如く候に、いかにして思ひ寄らせ給ひぬならん。兎《うさぎ》は經行《きやうぎやう》の者を供養せしかば、天帝哀みをなして、月の中にをかせ給ひぬ。今、天《てん》を仰ぎ見るに月の中に兎あり。されば女人《によにん》の御身として、かかる濁世末代《ぢよくせいまつだい》に、法華經を供養しましませば、梵王《ぼんわう》も天眼《てんがん》を以て御覽じ、帝釋《たいしやく》は掌《たなそこ》を合せてをがませたまひ、地神《ちしん》は御足《みあし》をいただきて喜《よろこ》び、釋迦佛は靈山《れいざん》より御手《みて》をのべて、御頂《おんいたゞき》をなでさせ給ふらん、南無妙法蓮華經南無妙法蓮華經。恐々謹言
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 これは弘安二年|己卯《つちのとう》六月二十日に書かれたものだ。
 窪《くぼ》の尼は、窪《くぼ》の持妙尼《ぢめうに》とよばれて、松野殿後家|尼御前《あまごぜ》の娘だが、武州池上|宗仲《むねなか》の室《しつ》、日女御前《にちぢよごぜ》と同じ人であらうともいふ。弘安二年以後、日蓮聖人五十七歳ごろから六十歳ごろまでにおくられた消息の中に、
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すずの(種々)御供養《ごくやう》、送給畢《おくりたびをはんぬ》。大風《たいふう》の草《くさ》をなびかし、雷《いかづち》の人《ひと》ををどろかすやうに候。よの中《なか》に、いかにいままで御信用候けるふしぎさよ。ねふか(根深)ければ葉《は》かれず、いづみ(泉)玉《たま》あれば水たえずと申《まをす》やうに、御信念《ごしんねん》のねのふかくいさぎよき玉《たま》の、心のうちにわたらせ給歟、たうとし、たうとし。恐々。
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 六月二十七日(弘安元年)
 同二年十二月二十七日は、尼が初春の料《れう》の餅をおくつたと見えて、

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十字(蒸餅《むしもち》)五十まい、くしがき一れん、あめをけ(飴桶《あめをけ》)一、送給畢《おくりたびをはんぬ》。御心ざしさきざきかきつくして、筆もつひゆびもたたぬ。三千世界に七|日《か》ふる雨のかずはかずへつくしてん。十萬世界の大地のちりは知人《しるひと》もありなん。法華經《ほけきやう》一|字《じ》供養の功徳《くどく》は知《しり》がたしとこそ佛《ほとけ》はとかせ給て候《さふら》へ、此《これ》をもて御心あるべし。
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 と禮を述べ、その前月、十一月二日の日附けで、持妙尼御前名宛には、御膳料《ごぜんれう》を送られたので、亡入道殿《なきにふだうどの》(持妙尼の夫)の命日であつたかと、とかう紛《まぎ》れて、打忘れてゐたが、なるほど、そちらでは忘れない筈だと、昔、漢王の使で胡國《ここく》に行つた夫に、十九年も別れてゐた蘇武《そぶ》の妻が、秋になると夫の衣を砧で打つその思ひが、遠く離れてゐた蘇武《そぶ》にきこえたといふことや、陳子《ちんし》は夫婦の別れに鏡を割つて一つづつ取り、妻が夫を忘れたときに鏡の破片が鵲《とり》になつて夫に告げたといふことや、相思《さうし》といふ女が男を戀ひ慕つて墓へ參り、木となつてしまつたが、それが相思樹《さうしじゆ》といふのだとか、大唐《だいたう》へ渡る道に志賀の明神といふのがあるが、男が唐へいつたのを慕つた女が神となつたが、その島の姿が女に似てゐる。それが松浦佐夜姫《まつらさよひめ》であるとか、昔から今まで、親子の別れ、主從のわかれ、いづれも愁《つら》いが、男女《ふうふ》の死別ほどのはあるまいなどといはれてゐる。
 けれど、そこまでは慰めであつて慰めでなく、そのあとの少しばかりが、眞に尼御前《あまごぜ》にいはれようとした眼目だつたのだ。
 ――御身《おんみ》は過去《くわこ》遠々《とほ/″\》より女の身であつたが、この男《をとこ》(入道)が娑婆《しやば》での最後で、御前《おまへ》には善智識《ぜんちしき》だから、思ひだす度ごとに法華經の題目《だいもく》をとなへまゐらせよ。と、二首の歌も書かれてある。
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ちりし花 をちしこのみ
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