》は、とうてい張りきれぬほどの数であったので、幾枚も幾枚も振りおとして掛けかえた。役者の似顔絵で知られていた絵双紙《えぞうし》やの、人形町の具足屋《ぐそくや》では、「名物人気揃」と題して、人情咄《にんじょうばなし》の名人三遊亭|円朝《えんちょう》や、大阪初登り越路太夫《こしじだゆう》(後の摂津大掾《せっつのだいじょう》)とならべて綾之助の似顔を摺《す》りだした。
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――綾ちゃんは今年十二だが大人《おとな》も跣足《はだし》の巧者で真に麒麟児だね――
[#ここで字下げ終わり]
との小書《こが》きがつけてあった。
そうするうちに五分刈の綾之助は稚子髷《ちごまげ》になった。また男髷になった。十四、十五と花の莟《つぼみ》は、花の盛りに近づいていった。明治廿三年には十六歳となった。女義界の綾之助は桜にたとえられた。それと同時にこれも売出しの若手に越子《こしこ》は藤の花、やはり男髷の小土佐《ことさ》は桃の花と呼ばれ、互に妍《けん》を競い人気を争った。学生の仲間にも贔屓《ひいき》がつくる各党派があった。綾之助党は三田の慶応義塾と芝の攻玉舎《こうぎょくしゃ》の生徒が牛耳《ぎゅうじ》をとっていた。それが今日の堂摺連《どうするれん》の元祖である。
聞くところによると三田の堂摺連の元祖は、同塾の秀才であった坂本易徳氏だということである。氏はいまこそ文壇のよた[#「よた」に傍点]をもって名が通り、紅蓮洞《ぐれんどう》の名は名物とされているが、狷介不羈《けんかいふき》、世を拗《す》ねたぐれさん以前にも、新派劇、女優劇と、何処の芝居の楽屋にも姿を現す、後日の素質は含蓄されていたものと見えて、この人が綾之助を三田党の随喜|渇仰《かつごう》の的に推称したということである。すれば、綾之助には紅蓮洞氏が結ぶの神でなくてはならない。恋人であり夫である石井健太氏は、紅蓮洞氏が率いた三田党の出身であるから――けれど、ぐれさんに言わせれば「三田の堂摺《どうする》ではない、俺《おれ》は天下の堂摺だ」と大語するかも知れない。
堂摺連は自分たちが推称する女王のかかる席へは、道を遠しとせず出かける。雨も、雪も、熱血漢の血を冷すには足りない。懐《ふところ》のさびしいのは隊を組んで歩いて廻る。もすこし熱狂に近いのは女王の車へ随従して車で乗廻す。それよりも激しいのは人力車《くるま》の轅《ながえ》につかまったり後押しをしたり、前へ立って駈出していったりする。高座に渇仰の的が姿を現わすと、神妙に静まりかえって、邪魔にならぬほどのよい機《おり》を見て、語り物の乗りにあわせて、下足札《げそくふだ》で拍子をとり、ドウスル、ドウスルと連発する。けれどもそういう連中は割合に淡泊であった。
綾之助の人気は絶頂ともいってよいほどに、彼女が十八、九になると満都に響きわたった。いうまでもなく彼女の人気は平民的で広かった。名高い芸妓などの名は、きいていても青年が眺める花ではないが、綾之助の場合は気楽で、そして語りものを通して一種の親しみをもつことが出来る。それが彼女のために日に日に新らしい信徒をむかえたのでもあったろう。そうなると勢い綾之助には迷惑な殉教徒が出てきた。彼女に熱心のあまり免職される若い巡査もあれば、母親の留守に自殺しようとまでした小心の書生もあった。その他にも切腹しかけた人があって、その人の母親は忰《せがれ》のために綾之助に懇談を申入れたことさえあった。ある三十男は気が変になって、いつも赤いハンケチを持ち、匂袋《においぶくろ》をさげて綾之助の後をついて歩いた。その人はいつも五行本の書風に真似《まね》、文句も浄るり節《ぶし》の手紙を、半年のうちに百数十通おくった。
綾之助の夫石井健太は、まだ三田に在塾のころ、十二歳からの彼女の姿を知っていた。卒業の後《のち》三田|聖坂《ひじりざか》に一戸をかまえて、横浜のある貿易商につとめていた。石井氏が綾之助を愛《いと》しんだのは、恋ではなかったが、綾之助は世心《よごころ》がつくにしたがって、この人にこそと思いそめたのであった。綾之助が十九の春は、彼女にとって忘れかねる、匂いこまやかな霞《かすみ》の夜であったろう。廿六の彼は、初めて彼女の志を入れ、終世を共にする誓《ちかい》を結んだのだが、成恋の二人の間には、惨《いたま》しい失恋の人があって、その人の誠心《まごころ》が綾之助の幸福のために仲人となってくれたのだった。
その人は石井氏の友達の弟であった。綾之助を恋したために落第も二、三度した。机の上の洋燈《ランプ》の笠《かさ》には彼女の名が黒々と書かれ、畳の上に頭をかかえて転《ころ》げ廻る彼は、
「日本中の者が死んで、俺《おれ》と彼女と二人ぎりになればよい」
と呟《つぶ》やきくらしていた。ある夜、石井氏と一緒に綾之助のかかる席へゆくと、綾之助は石井氏を木戸口に待ち迎えていて、氏の好みを聞いてその夜の語りものを改ためたりした。それを見て綾之助の心を悟った彼は絶望のあまり、冬の夜を一夜、品川海岸をさ迷っていたこともあった。その死にもしかねぬ彼の恋が綾之助の偽《にせ》手紙をつくって石井氏の心を試《ため》した。
それが二人を結びつける強い綱になったのだった。苦悶《くもん》は彼をたかめて、綾之助を失意のものにさせまいと、優しい思いやりまでして、彼は石井氏の両親が選んだ娘のあったのを、破約にさせるように骨を折った。そんなことがちらちらと噂《うわさ》に立つと、綾之助の高座へ悪戯《いたずら》をするものが出来た。石井氏の名を知って害《あや》めようとする者などもあった。養母の鶴勝を煽《おだ》てるものもあった。石井氏は後日の健全な家庭をつくるためにと、綾之助を慰めておいて、雄々《おお》しくも志望を米国へ伸《のば》しに渡った。綾之助はその留守をどうして暮したであろう、彼女は派手な芸人の上に、日の出の人気の花形である。あらぬ噂も立つ、またその上に大阪役者の中村|芝雀《しばじゃく》(後に雀右衛門)を従兄妹《いとこ》にもっていたので、東上のおりには、引幕を遣《おく》ったり見連《けんれん》を催したりする、彼女の生活の色彩は、いよいよ華やかであった。けれどそれは表向きだけで、彼女は健太氏の帰朝を一日も長しと待ちわびていた。彼女は未来の夫のために便船ごとに出す手紙を、忙しい間にかかさずに書いた。笑われまいために学びもした、裁縫などもならった。昔日《せきじつ》の「男おんな」はすっかり細君|気質《かたぎ》になっていた。
五年ぶりに成功して帰朝した石井氏を、廿三歳の豊麗な彼女が迎えた。養母の鶴勝はその悦びを共にすることを得ず、もはや鬼籍《きせき》にはいっていた。二人の心は一日も早くと焦燥《あせ》りはしたが、席亭《よせ》組合の懇願もだしがたく、綾之助の引退は一ヶ年の後に延引《のば》された。全くその頃は綾之助が出ると、投げ下足《げそく》というほど、席亭《よせ》の手が廻りかねる大入|繁昌《はんじょう》だった。石井氏が帰ってきてから何よりおかしがられたのは、(取消し屋の綾之助)といわれるほど克明に、制限なく新聞へ載せられる誤聞を、一々取消させないではおかなかったことだ。
人世の嵐《あらし》――この二人の上にも、ふと曇った影がさしたこともあるにはあったが、それは世間の面白がりが、待ちかまえていた二人の心の溝《みぞ》ではなく、愛の結晶の長男を早世させたことと、明治卅三年頃の相場の不況に失敗し、二女をかかえて洗い晒《ざら》しの浴衣《ゆかた》一枚になったことだった。その当時こそ多少陰惨の影はもって来たものの、かえって二人の心はぴったりと合い、綾之助貞淑の床しい語り草とも残された。卅七、八年の日露戦争ごろには、芽を出して、家庭は豊かになった。綾之助はこのおりこそと木戸銭がわりに手拭《てぬぐい》二筋ずつ客に持ってきてもらう演芸会を開き、二日間に二万本を集め得て恤兵部《じゅっぺいぶ》におくった。
時の歩みの早さ、家庭にかくれた綾之助に十年の月日は経った。四十二年の二月に女義界の紛擾《ふんじよう》の仲裁にたった羽目から、睦《むつみ》、正義の両派によらず独立して芸界に再来することになった。時の進むことの早さ、綾之助の堂摺連《どうするれん》はみんな紳士中産階級以上の人になり、時世の潮流もおしなべて向上した。再起の綾之助の語り口も、以前の浮気な人気ではなく、完《まった》く価値あるものとして価値《ねうち》附けられ、真に噛《か》みわけた人生の味を、期待された。
[#地から2字上げ]――大正七年四月――
底本:「新編 近代美人伝(上)」岩波文庫、岩波書店
1985(昭和60)年11月18日第1刷発行
1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
1936(昭和11)年2月発行
初出:「婦人画報」
1918(大正7)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年4月10日作成
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