》と、背中を丸くして目を摺《す》り赤めた老婆の涙が代表して待構えていた。そしてぼんち[#「ぼんち」に傍点]は強い刺戟《しげき》に爛《ただ》れた魂を、柔かい女の胸の中に、墓場に探《たず》ねあてて死んでいった。
 そうした義理人情の葛藤《かっとう》と、武家の義理立ての悲劇を語りものにしたのが義太夫である。であるから、節《ふし》であり、絃奏をもったものでありながら、義太夫は他の歌とはちがって唄《うた》うものではない、語りものである。現われる人物の個性を、苦悩を語り訴えるのである。
 竹本義太夫がその浄瑠璃節《じょうるりぶし》の創造主であるゆえに義太夫と唱え世に広まった。またその当時|人形操《あやつ》りには辰松八郎兵衛《たつまつはちろべえ》、吉田三郎兵衛などが盛名を博し、不世出の大文豪、我国の沙翁《さおう》と呼ばれる近松門左衛門《ちかまつもんざえもん》が、作者として名作を惜気《おしげ》もなく与え、義太夫に語らせ、人形操《あやつ》りの舞台にかけさせた。そして近松翁が取りあつかった取材は、その多くを当時の市井の出来ごとから受入れている。そうして義太夫節は大阪に生れ、大阪に成長し、語る人も阪地《はんち》の生れを本場とし、修業もその土地を本磨きとするのである。
 わが竹本綾之助《たけもとあやのすけ》、その女《ひと》もその約束をもって、しかも天才|麒麟児《きりんじ》として、その上に美貌《びぼう》をもって生れた。私は綾之助を幸福者だと思う。何故《なぜ》そういうかといえば、綾之助の現今は三人の娘の母親として、夫には長い年月の間も、最初にかわらぬ恋人として、家庭の中軸《なかじく》となっている。三人の娘は、さだ子、いと子、ふじ子とよんで、母の美しさと父の秀《ひい》でたところをとって生れた。姉は高女をこの三月に卒業し、中《なか》のいと子は実科女学校に学ばせている。綾之助は芸にも自家《じか》の見《けん》を立てているように、子女の教育の上にも一家の見識を持っている。娘たちの長所短所を見分けて、学ぶところを選ませている。家庭では、女中のする仕事をわけてさせ、娘たちを一人前の婦人とすることに腐心している。それは彼女が、彼女のあの名高かった盛時の芸名を、美しい娘の三人をも持ちながら、どの子にも伝えようとしないのにも、操持《そうじ》の高いことが窺《うかが》われる。彼女にはそうした満足と誇りがあり、そして家
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