らきりはない、全集で皆さんも一度讀んでください。
私は作中の人物が好きなばかりでなく、あの妖怪氣分も大好きです。あの水鷄の里だつて、高野聖だつて、水もおしよせてくれば蝙蝠も吸附くにちつとも不思議はないではありませんか。ある時は白菊の香にすつかり包まれて了つて、室内に菊の香が漂ふことさへあります、ある時は松の若葉がそこはかともなく、かすかにこぼれた氣配さへ感じられます。流れの音がさゝやく位なんでせう、時には鼓のしらべも通つてくる響きが、讀んでゐる内にしてきます。
私が未だ佃島に住んでゐたころ、離れにたゞ一人机にむかつておち潮の音をきいてゐると、エツエツと幽靈船みたいな、櫓の音がしないで、遠くから掛聲ばかりきこえてくるやうな夜更けに、ある夜ふと怖いものを見ました。それは頭の心が、しんと冴えてきたり、急に紙に辷るペンの音が凄くなつて、ふと手をとめて傍を見た時でした、ほんとにぞつとしたのは、横顏のすぐ近くに、ちらりと、丸髷の手絡――それも淺葱鹿の子が見えて、はつきりと、水も垂れるやうな鬢のかゝりから髱つきまで目にうつツたのです。私はグウ――といふほど胸がふくれて、動くことが出來なかつたのですが、その時はじめて、先生の「あちらまかせ」といふ氣持を知る事が出來ました。深夜、先生の身邊机邊には、美女の靈がどれほど折重なつて、とりまいて、凝と思ひをこらしてゐた事でせう……
(昭和十六年六月發行『鏡花全集』第十三卷月報より轉載)
底本:「鏡花全集 月報」岩波書店
1986(昭和61)年12月3日発行
底本の親本:「鏡花全集 月報4」岩波書店
1974(昭和49)年2月
初出:「鏡花全集 第十三卷月報」岩波書店
1941(昭和16)年6月
入力:門田裕志
校正:鈴木厚司
2006年11月1日作成
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