けれども気性のしっかりしているのも群を抜いていたという。一度言出したことは先生の前でも貫こうとする。そういった気性が女王《クイン》になった芸術座でもかなり人を困らせたのだ。
彼女もまた時代が命令して送りだした一人の女性である。たまたま彼女が泰西《たいせい》の思想劇の女主人公となって舞台の明星《スター》となったときに、丁度我国の思想界には婦人問題が論ぜられ、新しき婦人とよばれる若い女性たちの一団は、雑誌『青鞜《せいとう》』を発行して、しきりに新機運を伝えた。すべて女性中心の渦《うず》は捲《ま》き起り、生々とした力を持って振《ふる》い立った。その時に「人形の家」のノラに異常な成功をした彼女は、驚異の眼をもって眺められた。彼女の名はあがった。
ある夜更《よふ》けに冷たい線路に佇《たた》ずみ、物思いに沈む抱月氏を見かけたというのもそのころの事であったろう。ノラの舞台監督で指導者の抱月氏に、須磨子が熱烈な思慕を捧《ささ》げようとしたのもその頃のことであった。
恋と芸術の権化《ごんげ》――決然と自己を開放した日本婦人の第一人者――いわゆる道徳を超越した尊敬に値いする人――『須磨子の一生』の著者はそう言っている。
彼女は猛烈に愛した。彼女はその恋愛によって抵抗力を増した。けれど抱月氏の立場は苦しかった。総《すべ》てのものが前生活と名をかえてしまった。家庭の動揺――文芸協会失脚――早稲田大学教職辞任――
彼女にも恩師であった坪内先生の、畢世《ひっせい》の事業であった文芸協会はその動揺から解散を余儀なくされてしまった。島村氏も先生にそむいた一人になった。
嫉視《しっし》、迫害、批難攻撃は二人の身辺を取りまいた。抱月氏の払った恋愛の犠牲は非常なものだったが、寂しみに沈みやすいその心に、透間《すきま》のないほどに熱を焚《た》きつけていたのは彼女の活気であった。そして抱月氏が生《いき》る道は彼女を完成させなければならなかった。かなり理解を持っているものですら、学者は世間見ずのものであるが、ああまで社会的に堕落してゆくものかとまで見られもした。貨殖《かしよく》に忙《せわ》しかった彼女が種々《いろいろ》な客席へ招かれてゆくので、あらぬ噂さえ立ってそんな事まで黙許しているのかと蜚語《ひご》されたほどである。「緑の朝」のすぐ前に、歌舞伎座で「沈鐘《ちんしょう》」の出されたおり楽屋のも
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