がまとまって彼女は嫁《とつ》いだ。十七歳の十二月はじめに上総《かずさ》の木更津《きさらづ》の鳥飼《とりかい》というところの料理兼旅館の若主人の妻となった。
彼女はどこまでも優しい新妻《にいづま》であり、普通の女らしい細君であったが、信州の山里から出て来たのは、こんな片田舎の料理店の細君として納まってしまう約束であったのであろうかと思わぬわけにはゆかなかった。それに彼女の故郷の風習と、木更津あたりの料理店の女将《おかみ》である姑《しゅうとめ》の仕来《しきた》りとは、ものみながしっくり[#「しっくり」に傍点]とゆかなかったその上に、若主人は放蕩《ほうとう》で、須磨子は悪い病気になったのを、肺病だろうということにして離縁された。
……私は思う。勝気な彼女の反撥心《はんぱつしん》は、この忘れかねる、人間のさいなみ[#「さいなみ」に傍点]にあって、弥更《いやさら》に、世を経《ふ》るには負《まけ》じ魂《だましい》を確固《しっかり》と持たなければならないと思いしめたであろうと――
嫁入ってたった一月《ひとつき》、弱まりきった彼女はまた飯倉の姉の家にかえってきた。健康が恢復《かいふく》して来ると、五年の星霜《せいそう》は、彼女には何かしなければならないという欲求が起って来た。
正子が松井須磨子となる第一歩は、徐々に展開されるようになった。彼女に結婚を申込んだ人に前沢誠助《まえざわせいすけ》という青年があった。高等師範に学んでいたが、東京俳優学校の日本歴史教師を担任していた。俳優学校というのは、新派俳優の故参、藤沢浅次郎《ふじさわあさじろう》が設立したもので、そのころ米国哲学博士の荒川重秀《あらかわしげひで》氏も新劇団を起し、前沢はその方にも関係を持っていた。その青年の求婚は須磨子の方でも気が進んだのであろう。前沢の乏しい学生生活に廿二歳の正子という華やかな色彩が加わった。
堅気《かたぎ》の家に寄宿して、出京しても一度も芝居を見なかった若い細君の耳へ、毎日毎日響いてくるのは、劇に新生面を開いてゆかなければならないと、論じあう若き人々の声ばかりであった。新時代の要求は立派な女優であるというような事も響いた。良人《おっと》の前沢は妻にもそれを解らせようとした。彼女も知らずしらずに動かされて女優修業をしようと思い立った。前沢の関係のある俳優学校は女優を養成しなかったので、坪内先生
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