でありながら、松井須磨子の場合には不思議に一致して、
(立派な死方《しにかた》をした、しかし随分憎らしい記憶をおいていってくれた人だ)
 これが須磨子を知っている人の殆《ほと》んどが抱《いだ》いた感じではなかったろうか、この偶然の言葉が須磨子の全生涯を批評しているようだといわれた。
 あの人は怒っているか笑っているか、どっちかに片附いている人だったが、泣くということがふえて、死ぬ前などは、怒っているか、笑っているか、泣いているかした。
「先生と私との間は仕事と恋愛が一緒になったから、あんなに強かったのよ」
といい、
「私がほんとうに家庭生活というものを知ったのはこの二、三年のことですよ、先生もほんとに愉快そうですわ」
といったりした彼女が、泣虫になったのはあたり前である。むしろ笑いが残っていたのが怪しいほどだ。
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恋人と緑の朝の土になり
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と川柳久良岐《せんりゅうくらき》氏は弔した。「緑の朝」は伊太利《イタリー》の劇作者ダヌンチオの作で「秋夕夢」と姉妹篇であるのを、小山内薫《おさないかおる》氏が訳されたものである。どうしたことかこの「緑の朝」には種々の出来ごとがついて廻った。最初去年の夏、帝劇で市村座連の出しものであったとき、劇評家と、狂主人公に扮した尾上《おのえ》菊五郎との間に、何か言葉のゆきちがいから面白くないことが出来て、菊五郎の芝居は見るの見ぬのとの紛紜《いざこざ》があった。小山内氏は訳者という関係ばかりではなく、市村座の演劇顧問という位置からしても、舞台上の酷評には昂奮《こうふん》しないわけにはゆかなかった。それから間もなくその舞台装置の責任者であった、洋画家|小糸源太郎《こいとげんたろう》氏が、どうしたことか文展へ出品した額面を、朝早くに会場へまぎれこんで、自分の手で破棄したことにつき問題が持上り、小糸氏は将来絵筆をとらぬとかいうような事が伝えられた。口さがない楽屋雀《がくやすずめ》はよい事は言わないで、何かあると、緑の朝ですかねというような反語を用いた。その評判を逆転しようとしたのが松竹会社の策略であった。松竹は芸術座を買込み約束が成立すると、その魁《さきがけ》に明治座へ須磨子を招き、少壮気鋭の旧派の猿之助《えんのすけ》や寿美蔵《すみぞう》や延若《えんじゃく》たちと一座をさせ、かつてとかく物議《ぶつぎ》の種
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