《したん》の台に古銅《こどう》の筒の花器《はないれ》、早い夏菊の白が、みずみずしく青い葉に水をあげていた。深い軒に、若葉がさして、枝の間から空は澄んで見えた時節だった。好《い》い毛氈《もうせん》の上に幾面かの箏が出されてある。猿之助は、黒の紋附きの羽織に袴《はかま》をつけて、
「荻原《おぎわら》さん、聴入れて頂きまして、ありがとうございます。」
と、手をついていった。浜子も丁寧におじぎをかえした。
であるから、いかなる異変があっても、この約束は破れないと、私は信じた。が、遅れてはいって来た春子は、いかにも腹が立つように、苛々《いらいら》そこらを歩いて、唾《つば》を吐いたりした。猿之助は帰ったあとで、尺八の方の人が残っていたが、それも帰ると、浜子の芸術を冒涜《ぼうとく》するということを、彼女は雄弁に泣いて諭《いさ》めた。
これは、春子を通して、浜子の周囲一同の代弁であったのかもしれなかった。後《あと》から来た浜子の手紙でも知れた。私は、それを、無理とは思わないが、世間見ずな思い上りだと思った。若い猿之助の悲憤を思いやった。慰めようもない思いでわびた。そのかわりに違約の責《せめ》をひいて、私は浜子と絶交すると言った。
猿之助からの返事は、小生《しょうせい》ゆえに、長い友達と絶交してくれるなというのだった。
私は、以前《まえ》から箏曲では「那須野《なすの》」が、すこしの手も入れないで、あのまま踊になるということをいつも言っていた。それで故|尾上栄三郎《おのええいざぶろう》が「踏影会《とうえいかい》」を市川|男女蔵《おめぞう》とつくった時に、浜子の地《じ》で上演したことがある。芒《すすき》すらあまり生《は》えない、古塚の中から、真白《まっしろ》の褂《うちぎ》を着て、九尾《きゅうび》に見える、薄黄の長い袴で玉藻《たまも》の前《まえ》が現われるそれが、好評であったので、後に、歌舞伎座で、菊五郎が上演しようとし、地の箏は朱絃舎浜子にと、随分と望み、浜子もその心持でいたのだが、その実現は見なかった。
ともあれ、箏曲《そうきょく》の劇壇への進出は、朱絃舎浜子を嚆矢《こうし》とする。
*
大正五年世界大戦の余波は、我国の経済界をも動揺させた。横浜開港の時からの生糸商、野沢屋の七十四銀行の取附けとなり遂に倒産した。
浜子の家《うち》では、当主賢吾氏が、子飼《こ
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