けない前に、ある日の日かげを踏んで、足|許《もと》にあつまる鳩《はと》を避《よ》けて歩きながら、武子さんに、ずっと裏の方の座敷で逢ったことがあった。その時ふと胸にきたものは、あんなに麗《うらら》かな面《おも》ばせで、れいれいとした声で話されるに、憂苦《ゆうく》といおうか、何かしら、話してしまいたいといったようなものを持っていられるということだった。
 その時、
「※[#「火+華」、第3水準1−87−62]《あき》さまは、どうしてあんなことをなすったのでしょうね。」
と、突然と武子さんがいった。それは、白蓮《びゃくれん》さんが失踪して間もなくで、世上の悪評の的になっているときだった。
 二人は目を見合わせたきりで、探りあう気持ちだった。この人は、もっともっと大きい苦悶《くもん》をかくしているなと、思った。

 震災に、なんにも持たずに逃《のが》れ出たが、一束《ひとたば》の手紙だけは――後に焼きすてたというが、――あの中で、おとしたらばと胸をおさえて語ったお友達がある。――そういえば、秋の夜であり、きくであり、そのほかにも、種々のかえ名があるにはあったが――
 武子さんは、もうちゃんと、ああ出来上ってしまって、あれがいいのだから、美人伝へよけいな感想なんか書いてはいけないと。知っている人たちがみんなこういう。もとより、武子さんはわたしも大事にする。けれど、もっと大胆に、いいところをいってもいい、人間らしいところを話《はなし》ても、あの方の苦節に疵《きず》はつきはしない。お人形さんに、あの晩年の、目覚《めざ》めてきた働きは出来ない。本願寺という組織に操《あやつ》られてでも、それを承知で、自分自身だけの、一ぱいの働きをするということは、ああいう場処にいる人には、あれでよいので、あらゆる事に働き出そうとしたことは、劇や舞踊の方にまで進んで、かなり一ぱいの努力だったと思う。
 そういえば、武子さんは快活な、さばけたところのあるのは、幼いときからだというが、人徳を知るのに面白い逸話がある。ある美術家のうちの床《とこ》の間《ま》に、ブロンズのドラ猫があった。埃《ほこ》りまみれでよごれているのを、武子さんは猫が好きだったが、震災で焼いてしまったので、その埃りまみれの置物を、かあいい、かあいいと撫《な》で廻していた。その事を、あとで、猫を作った某氏にその人が話して、君が逢えばきっと猫を
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