たもので、鏡は顏を見るものとしてで、姿見《すがたみ》の前にくると別な氣分です。といふのは、あたしは踊りが大好きだつたので、お師匠さんなしの自由な踊りの稽古がたのしめたのです。いはばまあ、姿見が師匠なのでした。變なかたちをすると、「拙《まづ》い」と叫ぶ、實に生《き》まじめなもので、その聲は自分の聲とはしないのでした。
 そこで、おとなになつてからのあたしは鏡にこすい[#「こすい」に傍点]對しようをすることを覺えました。一個の鏡を二ツに役にたてる。ある折はあらゆる自分の缺點《あら》さがしをやります、醜さのかぎりを探りだします。それは顏面といふだけではなく、心にまで觸れてゐます。もつとも多く鏡の前で考へます、自分自身の惱みについて――それは深刻なものです。いつもいつもがさうであるとはいひませんが、はじめから自分を睨めるやうにむかふ時もあれば、ふと髮を解く手も忘れて、ボーツとなつてゐる時もあります。前の方の時は惡どく現實的なをりです、後の折はやや空想的です。前の場合には眼は殘酷な秋官《しうくわん》です、なさけ用捨もなく毛筋ほどのおもねりもありません、氣孔《けあな》ひとつにも泣きたいほどの厭さがあつて、とてもたまらない不快《いや》な存在です。ぶちこはしてしまふことも出來ない粗製濫造品、自分だからといふので生かしつづけようとする矛盾さ――まあそんな疳癪です。
 だが、またある折は化《ばけ》たつもりでだまかしておいて貰ひます。それではづかしげもなく人中《ひとなか》へも出ます。化粧といふのは他目《ひとめ》を賺《ごまか》すのではなく自分の心を化しなだめるのです。具合のいいことに化けようとしてゐる心は、都合よく賺《だま》されることに努力します。うぬぼれない自己滿足――自分をだましてゐればよいていどで、なるべく手早く、痛いところに觸れない速力で髮も結ひます、化粧もします。
 あたしは他人《ひと》に髮を結つてもらふのが大厭ひです。ひとつは潔癖からもくるのですが、凝と鏡を見詰めてゐる間が長くて耐へられなくなります。何時も美しいなあと思へて鏡にむかつたらば、鏡は愛らしくもあり、親しみもありませうが――我影を見る親しみはもちながら、なんとなく怖い氣がします。それは年齡《とし》が更《ふ》けてゆくといふ戰《をのの》きばかりではありません。それらのことは面影に、鏡に見出すより早く氣づいて、却て驚いて鏡
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