きめてしまって、父の方へ抗議がいった。
「あなたが、そんなくだらないものを読んで、考え込んでお出《いで》なさるから、子供のくせに真似をして黙りこんでいて、溜息《ためいき》なんかつくから、陰気くさくって困るじゃござんせんか。」
 父はおかしな人だった。恐縮して俳句をやめ、私を叱《しか》らないで、あんの山からこんの山へ、飛んでくるのはなんじゃろか、と頭に二本、指だか扇子だかを、兎の耳のようにおったてる小舞《こまい》を、能の狂言師をまねいて踊りだしたが、そんな小謡《こうたい》は父が汗を出して習うより早く、障子《しょうじ》にうつる影を見て、子供たちの方がおぼえてしまった。
 あんの山よりこんの山へとか、頭《かしら》に二つ、フッフッとか、誰もかれもが唄《うた》い、踊りだすので、父が照れて止《や》めて、こんどは茶の湯、家中が、そろりそろりと畳をすってあるく――だが私の溜息《ためいき》をついたのは、別段、父の真似をして黙想したのではなく、胸に病《やまい》をもちはじめたのを誰もが思いもつかなかったのだ。堅い棒で肩を叩《たた》いたり、肋骨《ろっこつ》をもんだりするのを、ただ読物のせいにばかりした。机によりかかっているからだと厳しくとめられた。
 ところで、悲惨なことに――あんぽんたんにとっても悲惨なことに、源泉学校は(前出)やっと尋常代用小学校となったのに、校長秋山先生が疫病《えきびょう》で急に死んで学校がなくなった。温習科二年にたった一人の生徒あたしは、それをしおに学問はやめ、裁縫《おしごと》の稽古《けいこ》にやられる運命になった。

 ここに、日本橋住人の一家族として紹介しなければならない人たちはまだ沢山ある。思えば私はおかしな人たちの中にばかり育ってきたものだった。今日の尺度《ものさし》では、ちょいと量《はか》りきれない間伸《まの》びのしたものだ。甚だのんきなもののようだが、首都日本橋に面影をとどめた、三百年封建制度の膝下《しっか》にあった市民の末期と、新しく萌上《もえあが》る力との、間に生きたある層の、ありのままの風俗である。
 あたしはまた、ふたたび日本橋を書きつづける日を持とうと思っている。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
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