へ丸めた束髪で、白っぽい風通《ふうつう》か小紋ちりめんを着て、黒い帯をしめ、金歯が光っていた。斯波《しば》さんの御新造《ごしんぞ》といって、浅草蔵前の方にいたから、もしかすると民政党の斯波氏のおうちの方だったかもしれない。この女《ひと》が家元の格をもっていたようだった。
 日本橋伊勢町の方に芦洲さんは住んでいた。肥《ふと》った黒い、立派な押出しのおかみさんだった。大きい、勢いのいい店の内儀だったのだろうと思う。いま、東流二絃琴の正統な弾手として奮闘しているのは、この人のお弟子さんたちにちがいない。ごく若い娘さんたちで、名取になっていた人のあったことを思いだす。この派の弾き手なら、直門の正しい手法といえるだろう。ただ、私の子供の耳にも、やや余情のない、勢いのいい、ハッキリした芸風と思えた。
 二絃琴は歌が――節がむずかしい。私はそんなふうにおぼえた。芦寿賀さんは節がやかましかった。曲をおぼえればそれでいいとしなかった。尤《もっと》も、それは、きん坊とあんぽんたんだけで、あとの人は普通《なみ》に、器楽の方を主にして教えはしたが、二人の子供は歌の方が三日、琴《きん》の方は一日で自分から弾けてしまった。
 あんぽんたんは、二絃琴がどんなものか、おぼろげながら知っていた。私の家にも芦船師が来たのだそうだが、そんな事は知っていない。ただ二絃琴という名は知らないが、おしょさんの家で見るそれとおなじ楽器が私の家《うち》にもあったのだ。父が時たまとりだして、安座《あぐら》をかいて、奏管《ろかん》(琴爪)で琴につけた譜面の星を、ウロウロ探しあてて弾いていた。大かた九世団十郎時代の、お弟子の一員ででもあったのであろう。父はその琴を撫《なで》ていった。
「これは芦船の形見だよ。」
 後にわかったのは、薬研堀《やげんぼり》にいた妾《ひと》は、日本橋区|堀留《ほりどめ》の、杉の森に住んでいた堅田《かただ》という鳴物師《なりものし》の妹だった。今でも二絃琴の鳴物は、鼓《つづみ》の望月|朴清《ぼくせい》の娘初子が総帥《そうすい》である。

 おしょさんの家は格子戸の中が半間《はんげん》のたたき[#「たたき」に傍点]に二畳、となりに窓の部屋、中の間の八畳にずっと戸棚があって、一方の壁に箪笥《たんす》がならび、その上に一ぱい細かいものが飾られてある。そのさきが長四畳《ながよじょう》と台所ののれん[#「
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