おしょさんの若い時分はどんなだろう、盲目のおばあさんの、大名のお部屋さま時代はどんなだろう。そこに、くさ草紙《ぞうし》の世界が現われ綿絵の姿が髣髴《ほうふつ》とした。田之助《たのすけ》が動き、秀佳《しゅうか》が語る――
「ヘイ、お暑う、伝吉でございます。」
 芝居茶屋の若い衆――といっても、もう頭の禿《はげ》ている伝さんが、今戸《いまど》のおせんべいを持ってくる。
「いい香《にお》いだね。」
 おしょさんは袋をあけて見ながらいう、そこのおせんべいは、持ってくる時間をいって、頼んで焼いておいてもらうのだから、ほんとの親切を悦《よろこ》んですぐお茶を入れさせる。
「こんどはひとつどうぞ。」
 芝居の話と伝さんの娘の話をして、さんざい袋をもらってかえる。と、入れちがいに、
「へえ、伝さんが来ましたか?」
と女中さんと話ながら清《せい》さんが入って来た。伝さんとおなじの、黒い、麻の着物の尻《しり》はしょりをおろして、手ぬぐいで、麻裏草履を穿《は》いて来た足前《つまさき》をはたいて、上って来て、キチンとお辞儀をした。
「お暑うございますな。」
 茶献上《ちゃけんじょう》の帯の背にはさんだ白扇をとって、煽《あお》ぎながら、畳んだ手拭の中をかえして頸《くび》を拭《ふ》いた。小判形の団扇《うちわ》が二本、今戸名物、船佐《ふなさ》の佃煮《つくだに》の折が出される。
「川崎屋までまいりましたから、これは私のわざっとお土産《みやげ》で。」
 清さんの兄貴は、川崎屋権十郎の古い男衆だった。
 こういう人たちは、中村座が閉場《あけ》ば中村座の何屋へ、新富座ならば何処《どこ》と、三、四軒の芝居茶屋を助けもするが、歌舞伎の梅林《ばいりん》とか三洲屋とか、一、二の茶屋で顔のうれている男衆たちだった。
「毎年|是真《ぜしん》さんでござんすから、今年は河竹さんのにお頼みいたしまして――」
 それは団扇の絵のことだった。河竹さんとは、本所《ほんじょ》に住む黙阿弥翁《もくあみおう》のことで、二人娘の妹さんが絵をかき、姉さんはお父さんの脚本のお手伝いをした。
 おしょさんの家《うち》には、そうした団扇に虫がつかないように、細い磨竹《みがきだけ》に通して、室《へや》の隅に三角に、鴨居《かもい》へ渡してあった。
「おしょさん、今年のお浴衣《そろい》は、大層|好《い》いっておはなしですから、夜《よ》芝居で、お浴衣
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