はは》はうろ[#「うろ」に傍点]覚えでこんな事をいっている。
裁判官が代言人の父に「では、それだけの金をどうしてつくる。」――保証するという意味をいうのであろう。
父の答えがふるっている。「私の母はあの辺で有名な金持ちでありますからおしらべになればわかります。私は母の金をかりて納めます。」
裁判官「さようか。」
嘘《うそ》でない、それですんだのだといっているが、そんなばかなはずはない。それに吉原の方では、金は吉原から出して決して不自由をさせないからと言って来たが、とうとう出さないで済んだといっている。しかし父は秀造さんを自首させたそうだ。すこしばかり未決にいて放免になったがこの事件は被告が無罪になるまでにはかなりの骨折だったので、吉原では私の父でなければならないように大事にした。
またその頃でもあろうか、吉原に娼妓の自由廃業があった。これは恥かしい事に父が楼主の方の味方をして勝たせた不名誉な事件だ。勝ったときくと、全国の女郎屋からおなじような訴訟を頼んできた。母は欲張って商業繁昌《しょうばいはんじょう》だとよろこんだが、父は断わって、あれは、あの事件が最後になるもので、もう法律が変るといって諭《いまし》めたそうだ。私はいまこれらの事をよくきいておかなかったのを悔《くや》んでいる。娼妓解放と、この自由廃業とのことについて耳にとめておいたらば、もすこし報告的なことが書けたであろうに――
ともあれ金兵衛さんの生活は豪華だったものに違いない。私がもっている古裂《ふるぎ》れに、中巾《ちゅうはば》の絹縮みに唐人が体操をしている図柄の更紗《サラサ》がある。それを一巻《ひとまき》もって来て、私の着物の無垢《むく》に仕立たのも金兵衛さんの秀造おじさんである。六代目菊五郎の幼時にも、横浜からおなじ柄の着物をもらったというので、いつぞや裂地《きれじ》をくらべて見たが、秀造おじさんの手に入れたのの方が上等品であった。その他《ほか》に、好事《こうず》な手だんすだとか、古い竹屋町裂《たけやまちぎ》れでつくった茶ぶくさ入れだとかみな大名道具であった。私の父はよくいった。他人の泣きを悦《よろ》こぶ不浄な銭《ぜに》で買ったのだと。――
秀造さんの兄弟は、かなり有名な人たちであった。沼間守一《ぬまもりかず》という刑法学者、銀行家の須藤、代言人の高梨哲四郎――この人は長髪で騎馬へ乗り歩くの
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