チンコッきり
長谷川時雨
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)出車《だし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)蝶々|髷《まげ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ふさぎ」に傍点]
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アンポンタンはぼんやりと人の顔を眺める癖があったので、
「いやだねおやっちゃん、私の顔に出車《だし》でも通るのかね。」
さすがの藤木さんもテレて、その頃の月並《つきなみ》な警句をいった。
小伝馬町の牢屋の原を廻《めぐ》る四角四面の町々に、アンポンタンの友達の分譜《ぶんぷ》があり、学んだ学校があり、長唄稽古所があり、親の知合《しりあい》の家もあったから、私がポカンと立止って眺めているなにかしらが多くあった。もともと牢屋の原の居廻りは、日本橋という主都の中央でありながら、今でいえば新開《しんかい》の町だけに、神田区上町との間に流れる溝《どぶ》川の河岸についた、もとの大牢の裏手の方は淋《さび》しいパラッとした町で、呆《ほう》けたような空気だった。そのかわりに今いえば日本橋区内の何処《どこ》でもに見られない新職業があった。古鉄屑屋の前に立って、暗い土間の隅の釜で、活字が鉛に解かされてゆくのを何時《いつ》までも眺めたりしていた。古莚《ふるむしろ》に山と積んだ、汚ない細かい鉄屑《かなくず》が塵埃《ごみ》と一緒に箕《み》で釜の中へはかりこまれると、ギラギラした銀色の重い水に解けてゆくのを、いくら見ていても厭《あ》きなかった。それが泥の中へこぼされると、なまこ型にかたまるのも面白かった。またある板がこいの中を覗《のぞ》くと、そこは地獄のように炎が嚇々《かっかく》と燃ていて、裸の小僧さんが棒のさきへ何かつけて吹くと、洋燈《ランプ》のホヤになるので息をのんで覗いていた。小さな瓶や、大きな瓶もすぐ出来上るのを見ていたが、暑さと苦しそうなのが、この見物とは反対に、こしらえている小僧さんたちにすまなく思わせた。
表通りには鉄道馬車の線路のある日本の中央の幹線道路でありながら、牢獄《ろうごく》のあった時代からはかなり過ぎているのに、人通りがなくて、道巾の広い通りには野道のように草が生えていた。ガラス工場などは板屋根だからよけいに草が茂っていたが、瓦葺《かわらぶき》の屋根にも青々とした草が黄色い花をつけていた。
藤木氏がチンコッきりをしていたのもその近所だった。はじめ私が発見した時、私は藤木氏なんぞ目にも入れなかった。忙《せわ》しなく煙草の葉を揃える人の手元や、ジャキジャキと煙草の葉を刻《きざ》んでいる職人の手許《てもと》を夢中になって眺めていた。
その日の夕方、いつものように来て、藤木さんは母に呟《こぼ》していた。
「今日ってきょうは弱ったのなんのって、汗が出たね。だんまりはいいがね、いつまでもいつまでも立って見ているのだからね。こっちのほうがなにか言わなくちゃならない気がして――」
だが真から心配そうにもいった。
「あんな道草していて、稽古《けいこ》にほんとにゆくのかしら?」
その翌日あたしは、藤木さんのチンコッきりを立って見ていてはいけないと誡《いまし》められた。そのついでに母と誰かが話していたのだが、チンコッきりおじさんは、職人としても好《よ》くないのだそうだ。細君の方は目が高くて、煙草の葉を選《よ》るのにたしかで早い、大事な内職人なので、その方を手離したくないために、役にたたない御亭主も雇っておいてくれる。家《うち》でも口やかましい人が外に出ていてくれるのだから、大切に、おがむようにして出してやる。店の方でも細君の方に沢山仕事をさせたいので、機嫌をとっておいてくれるので、それでも三日目位にはあきてしまうのだと言った。
藤木さんはその頃が貧窮のどん底だったが、細君の前だけでは、封建的殿様ぶりを発揮して、怒鳴ってばかりいた。蜜柑《みかん》箱にキンタマ火鉢を入れたのが長火鉢かわりの生活《くらし》でいて、
「貴様なんぞはボテイフリの嬶《かかあ》にでもなれ。」
というのが口癖で、魚売《さかなや》は自分よりよほど身分違い――さも低級でもあるように賤《いや》しめて罵《ののし》る習慣《くせ》があったのだ。貞淑な細君は、そんな事を言われても尤《もっと》ものように押だまって辛棒強く働いていた。手跡はお家流をよく書き、腰折れの一首もものし、貧乏の中に風流を解するゆとりもあり、容貌《きりょう》は木魚の顔のおじいさんの娘なりに、似てはいたが醜くはなかった。
娘のおあさは色の黒いところと、人のよい正直者の表標のような光りをもつくせに、ちょいと見は鋭く見える眼つきを父親からもらって、母親からは祖父ゆずりのお出額《でこ》を与えられた。髪の毛の濃い小ぢんまりした小さな娘だった。
ある日、藤木夫妻
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