、どの家でも細君が家附きの娘だという。多くの中から目ぼしい若者を養子に抜いてゆくのであろう。だが、大番頭の息子も小僧と一緒に終業するのかどうかそれは知らない。あたしの知っている大番頭さんの娘は、おあぐさんにおたをさんという姉妹だった。そのお母さんも、そのまたお母さんも家附きの娘だ。とても丁寧な人たちで――一体にどこの家の女の人もそうだったが――お風呂であうと板の間でも両手をついて、寒いのに何時《いつ》までも御挨拶《ごあいさつ》がある。時候が冷えますということから、朝晩めっきり寒くなったこと、皆様おかわりがないかということ、先日は何々して何々がなにとやらと、とても閑談的なのである。
おあぐさんという名は妙だが、下町ではよく阿久利[#「阿久利」に傍点]という名をつける。大概大事な子で、子育ちの悪い家でつける者だという。このおあぐさんが、年寄り連の理想的な娘なので、あの通りにお優しく、しとやかな声を出さなければいけないと、よく引合《ひきあい》に出して叱《しか》られた。おあぐさんの家は向う新道の角から二軒目で、二階と塀を通りにもち、玄関はわざとのように、敷石のある露路に古い磨いた格子戸をもっていた。冬は朝早くから寒《かん》ざらいといって長唄《ながうた》のおさらいをする。午後《おひる》っからもする。三味線の音がよく聞えるので、ソラおあぐさんはお浚《さら》いだと私も三味線をもたされるので、その方角は鬼門だった。
その他、大丸直属の仕立屋や縫箔屋《ぬいはくや》が幾軒かあった。店蔵づくりの、上方《かみがた》風の荏柄《えがら》ぬりの格子窓で、入口の格子戸の前に長い暖簾《のれん》が下っていた。帯ばかりくける[#「くける」に傍点]家もあった。天水桶《てんすいおけ》があって――桶といっても上に乗っている手桶だけ木で、下の天水桶は鋳鉄《いもの》が多かった。かなりいい金魚が飼ってあるので、金網を張ってあるのもあった。その一軒の大仕立屋におしゅんさんという美しい娘がいて、上方風の「油屋お染」のような濃艶《のうえん》なおつくりしていた。面長《おもなが》な下《しも》ぶくれな顔に黒い鬢《びん》を張って、おしどりに結って緋《ひ》鹿《か》の子《こ》の上を金紗《きんしゃ》でむすんでいた。つまみの薬玉《くすだま》の簪《かんざし》の長い房が頬の横でゆれて、羽織をきないで、小さい前かけ位な友禅《ゆうぜん》ちりめんの小ぶとんに、緋ぢりめんの紐《ひも》のついたのを背にあてて、紐を胸でむすんでさげていた。その女《ひと》が狆《ちん》を抱いて、夕方遊びに出るのを見るのがあたしは大好きだった。
大丸の小僧はみんな馬鹿なのかと思ったことがある。大きな姿《なり》をして、頭髪をおかっぱのようにして、中には胸にあぶらや[#「あぶらや」に傍点]のような茶色の切れをかけていた――お茶盆をもって、アーアーと節をつけて、店のはなっさきを行ったり来たりしていたからだ。アーアーというのは、おはいりという事なのだといったが、眺めていると好い気持ちではなかった。
大丸と向いあった角に仏具屋があって、その横に交番があったが、ある日引っこしをした。人夫が交番へ丸太ン棒を通して担いでいってしまったので吃驚《びっくり》した。でも交番がとれて四ツ角が広くなったのは具合がよかった。何事もみんな物珍らしいことはこの四ツ角に立って見物する最上の場所だったから――
住吉踊《すみよしおどり》の一隊が来てかっぽれを踊ると、大きな渦になって見物がとりまいた。梅坊主《うめぼうず》の連中は夕方にやってくるのでよく人が寄った。お正月の出初《でぞめ》も賑やかだった。下町の纏《まとい》は大概あつまって、ずっと大伝馬町から油町通りに列をひいて揃って梯子《はしご》乗りをする。それよりも大丸の年中行事は、諸国から出開帳《でがいちょう》の諸仏、諸神のお小休みだ。譬《いわ》ば嵯峨《さが》のお釈迦《しゃか》様が両国の回向院《えこういん》でお開帳だとか、信濃《しなの》の善光寺様の出開帳だとか――そのうちでも日蓮宗は華《はな》やかだった。小伝馬上町《こでんまかみちょう》に身延山《みのぶさん》の出張寺はあったが、本所の法恩寺へお開帳はもっていった。そのかえりが一日上町のお祖師様へ立寄るのだった。大万燈や、髭《ひげ》題目を書いた。ひぢりめんのくくり猿をつけた大巾《おおはば》ちりめんの大旗や、出車《だし》もでた。縮緬《ちりめん》ゆかたのお揃いもある、しぼりの揃いもある。派手を競い、華美をつくし、見ているのも足労《くたび》れるほど沢山、目印を各講中ごとに押立てくるが、そのどれもがかわらないのは、気狂いかと思うほど無中で太鼓を叩《たた》いてお題目《だいもく》をど鳴ることだった。花笠を背にしている一連もあれば、男女とも手拭《てぬぐい》を吉原かぶりにしているのもある。胸で小意気に結んでいるのもある。
その人たちが――無数な人たちが、一時大丸の店を一ぱいに占領してお中食《ちゅうじき》をする。それから一休みして順繰りにくりだす。先頭が両国橋へかかる時分に、まだ中頃のが足揃いをしている。御本体が出て、お茶湯《ちゃとう》が一番最後に出てゆく。
ある日もアンポンタンはおまっちゃんと四ツ角で、その大人の、目覚《めざま》しい狂奔《きょうほん》を見物していた。すると、帝釈様《たいしゃくさま》の剣に錦地《にしきじ》の南無妙法蓮華経《なむみょうほうれんげきょう》の幟《のぼり》をたてた出車《だし》の上から声をかけたものがある。
「ヤッちゃん、手を出して――はやく乗った、乗った。」
学校友達の古帳面屋のお金ちゃんのお父さんだった。その人は背の高いキレイナ人で、清元《きよもと》のお浚《さら》いの時に山台《やまだい》に乗って、二、三人で唄《うた》っていたことがあって、みんなにオシイー、オシイー、とほめられた人だった。その時はじめて清元とは首を振って唄ってしまうと、おしいーと長くひっぱってほめられるものだということを知ったのだった。金坊のお父さんは、講中の世話役だから橘《たちばな》のもようのお揃いの浴衣《ゆかた》を着て、茶博多《ちゃはかた》の帯をしめて、お尻《しり》をはしょって、白足袋の足袋はだしで、吉原かむりにして襟に講中の団扇《うちわ》をさしていた。
あたしたちは吃驚《びっくり》しているうちに、見物が抱上げて出車《だし》の上の人たちの手に渡してくれた。無論上にはお金坊もおよっちゃんもいた。妙に晴がましかったが、押上げてくれた人たちが不思議とほこらしげにニタニタ笑っていた。日傘ほどの大きな団扇で誰かが煽《あお》いでくれる――お金ちゃんのお父さんは首から拍子木《ひょうしぎ》をかけていて、止るところや何かで鳴らした。火の用心と赤く書いてある腰にさげた袋から煙草《タバコ》を出して吸った。行列が深川の高橋にかかった時、あたしは橋の上から後の方を見渡して、誰もほかに知ったものはなし、何処《どこ》につれてってしまわれるのかとホロホロして帰してくれとせがんだが、もう仕用がないときかれなかった。
憲法|発布《はっぷ》の時、大丸では舞楽の「蘭陵王《らんりょうおう》」の飾りものをした。これは日本橋油町の鉾出車《ほこだし》にあったもので、神田田町の「猿」、京橋の「閑古鳥《かんことり》」と並んで、有名な日本橋の「竜神《りゅうじん》」とは違うが維新の時国外へ流れ出てしまった、この有名な蘭陵王の面は、アメリカにあるとかいった。大丸では当時の町総代が京都までいって織らせた、蘭陵王の着用の裂《き》れ地の価値を知っているので、それを造って飾った。その日|何処《どこ》でもしたという酒樽《さかだる》のいくつかが、大丸の前にもかがみが抜いて柄酌《ひしゃく》がつけて出された。
油町側では憲法発布の由来というような、通俗的な演説会といったふうなものを催した。そんな時にこそ大丸が会場であるはずなのだが、町内の関係で油町の加賀吉という大店で開かれた。そこはたしか山岸荷葉氏――紅葉《こうよう》門下で、少年の頃は天才書家として知られていた人である――の生家で、眼鏡や何かの問屋だった。年の暮のえびす講などに忘年芝居を催したりする派手な店で北新道のあたしの家の並びの荷蔵に、荷車で芝居の道具を出しに来たりしていた。その店が会場となり演説の卓《つくえ》がおかれた。
そんな事はお江戸|開闢《かいびゃく》以来のことと見えて、アンポンタンの幼い頃にも忘れない不思議な光景を残している。まず、弁者は、その近辺でも当時の新智識と目《もく》されたものと見えて洋服を着ていることの多いあたしの父であった。洋服が新時代の目標であったと見える。尤《もっと》も、官員さんの一人もいない土地であって見れば、私の父がハイカラだったのかも知れない。明治十二年官許|代言人《だいげんにん》、今から見ればとても古くさい名だが、十二人とかしかなかった最初の仲間の一人であったときいている。
前の日まで、憲法ということの講釈を、若い旦那《だんな》たちの幾人かが熱心に聴きにきた。その人たちが世話役でもあったのであろう。その当日も机をはこんだり、会場のしつらえを問合せに来たりして、いよいよ午後六時前となると、傍聴ファンの動作研究会というような集りになった。どうもまだノーノー、ヒヤヒヤが分明《はっきり》しないという訳なのだった。書生たちまでが一緒に並んでその稽古をやる。父はハイカラな礼服だが、朝からの祝酒《いわいざけ》に、私が大きらいな赤黒い色になっている。手はずしてあった個処《かしょ》で、合図を忘れるので、ファン連は、困りきって、演説を暗誦《あんしょう》しておこうと努力したが父は面倒くさがっていた。俺《おれ》が、このコップをこうあげたらヒヤヒヤだ、机の此処《ここ》へ手をやったら否《ノー》だ。こういう風になったら拍手だと教える。だが、やって見るとノーノーもヒヤヒヤも拍手も入交ぜとなる、何度繰返してもおんなじなので、まあいいやということになってしまった。今の言葉ならばそれが自然だというところだったろうが――
聴衆は表の通り一ぱいの黒山だった。解《わか》ったのか解らないのか、ともかくとてもおめでたい事という概念と、はちきれるほど一ぱいなお祭り気分で、ノーノー、ヒヤヒヤ、拍手|喝采《かっさい》、何もかもメチャクチャに景気よく、弁士を胴上げにして家まで送って持って来た。そのあとが馬場勝《ばばかつ》一派の長唄《ながうた》――馬場は浅草橋の橋手前、其処《そこ》に住む杵屋《きねや》勝三郎といった長唄三味線の名人、夜一夜《よひとよ》唄うにまかせ、狂うにまかせ、市中は明るい不眠症にかかって、そこら中で花瓦斯《はなガス》が燃え酒樽が空《あ》いた。雪をこねかえした泥濘《ぬかるみ》に、お酒にお腹《なか》の袋を破った死人がゴロゴロ転がった。
多分戸を閉めないで寝た家が多かったろう。
底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年4月2日作成
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