ゃんに持っていってやったが、おまっちゃんは見向きもしないで、窓に石盤《せきばん》をのせて、色石筆《いろせきひつ》であねさまを絵《か》いていた。あたしも仕方なしに佇《たたず》んでいた。すると、窓に並んだ勝手口の方で、カタンと金属《かなもの》の音がした。あたしも見た。おまっちゃんも見た。
 露地の出口を乞食《こじき》のような老人《としより》が出てゆく後姿が見える。その老人のさげてゆくものがカタンカタンと鳴る。
「鍋《なべ》が――鍋が、鍋が。」
 おまっちゃんは出来るだけの声をだした。
 秋山先生は御飯後の苦いお茶を喫《の》んで、蘭《らん》の葉色を眺め入っていた。
 老人は溝板《どぶいた》をドタドタと駈出《かけだ》した。鍋がガチャンとぶつかった音がした。台所からも御新造さんが怒鳴りだした。生徒たちもワーッと声をあげた。
 秋山先生は袴《はかま》の股立《ももだ》ちをとって飛出した。生徒もみんな加勢に飛出した。表通りからも、裏通りからも、番頭さんや小僧や、権助《ごんすけ》さんまでが火事と間違えて駈けつけてきた。
 泥棒はあわてて、向う裏へ逃げこんだが、それでも鍋はさげているので、逃げだした道筋には味噌汁がこぼれていた。老人《としより》の泥棒はまごついて外後架《そとごうか》へ逃込んで、中から戸を押《おさ》えていた。先生は持っている鞭《むち》で、戸をはたいて、
「出ぬか、出ぬか。」
と怒鳴った。見物の弥次馬《やじうま》は笑ったが、生徒たちは真面目《まじめ》で先生のいう通りに怒鳴った。そうすると泥棒は体をかくしたまま、戸の上から鍋だけさしだした。先生はその手首をグイとひいたので、味噌汁《おつゆ》を肩から浴びてしまったが、カッとした勢いで引出したので、汚い老人はブルブル顫《ふる》えながら出てきた。
 先生は勝誇って揚々《ようよう》と、片っぽの手に鍋をさげ、片っぽの手で老人の肩をひっつかんで引摺《ひきず》った。大得意で先生は大通りを人形町の交番へと、老人を引渡しにいった。生徒も弥次馬も後からぞろぞろとつづいた。
 おまっちゃんもあたしもその時だけは先生を憎んだ。なにをきかれても答えなかった。

 祖母は秋山先生一家を信頼しきっていた。時折訪問したが、孫たちの方へは目もかけずに帰った。台所口から家の使《つかい》が、お盆へ乗せてふくさ[#「ふくさ」に傍点]をかけたものを持って来ていたが、厳《きび》しくしてくれと頼んでいる様子だった。
 おまっちゃんは強情だった。二人がお灸《きゅう》を据えられるとき――私の家では、一日に二度も三度もお灸の出る時があった。甚《はなはだ》しい時は、お灸を据えられて後泣《あとな》きをいつまでもしているからといってはまた据えられた。灸は薬だからと、灸好きの祖母が許すので、疳癪《かんしゃく》もちの母は、祖母へ対して不服な時も、父へ対して不満なときも、子供の皮膚を焼いた。痩《や》せた女《ひと》の股《もも》ほどもある腕をもっている体格の、腕力の強い母親だった。ドサリと背中へ乗りかけられてしまうと、跳返《はねかえ》すことなどは出来なかった。妹は秘蔵っ子だったが、それでも仕置の時だけは別で、強情な彼女は腕を脱《ぬ》いたりして、小伝馬町の骨接《ほねつ》ぎの百々瀬《ももせ》へ連れてゆかれた。ある夏の夕方、彼女が麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶって、黄麻《こうま》の大がすりの維子《かたびら》を着て、浅黄ちりめんの兵児帯《へこおび》をしめて、片腕ブラリとさせて俥夫《しゃふ》の松さんに連れられて百々瀬へ行く姿を、あたしは町の角で、夕霧《ゆうもや》にうすれてゆくのを見送りながら大声で泣出したくなったのを覚えている。そんな風なので、お灸の時、あたしは滝にうたれたように、全身の膏汗《あぶらあせ》にヘトヘトになってしまっているが、おまっちゃんは何処《どこ》までも反撥《はんぱつ》した。お小用だというのが癖で、それで手をゆるめると逃るので、出たければしてもよいというと、小さな彼女はもうお灸の熱さも、乗っていられる苦しさも忘れて、出もしないお小用を絞りだそうと一生懸命になり、目的通りにやると、も一層激しい憤《いきどお》りを母から受けるのであった。
 だから学校でもよく残された。あたしもお相伴《しょうばん》をさせられる。課業のあるうちは、黒板の下へお線香と|茶碗の水《おみず》をもってたたされるのだが、彼女は笑いながら水の中へ線香を突込んで火を消した。お残りは、広い教場へ二人だけ残されるのだ。机を積み重ねた上を渡ったりして二人は仲よく遊んだが、臆病《おくびょう》だったあたしは、夕暮ぢかくなると悲しくなりだした。あたしは別に残っていなくてもよいのだが、どうしても妹を残して帰れないので――そんな時、意地悪く家からはお礼を言いに使いが来たりした。
 もうよい頃と見ると、秋山先生が、まずあたしだけを部屋へよんで、お茶をくんでくれて、ぼた餅《もち》をとってくれたりする。すると、きっとあたしが泣き出すので、それからおまっちゃんを連れにゆく。おまっちゃんにもおなじようにぼた餅をとってやる。
 暮れかかった町を、二人の幼い姉妹が連れだって帰ると、後の方から離れて、秋山先生がそっと送ってついてきてくださる――
 秋山先生は女の子の仲間にいると女親のようにものをいった。ある春の日、山吹きのしん[#「しん」に傍点]をぬいて、紅《べに》で染めて根がけにかけてきた小娘《こむすめ》が交って、あたしのお座をとりまいていた。あたしはいつもの通り石盤へ人間を2の下へリの字をつけたような形に描いて、昨日の続きの出たらめ話をしているときだった。
「金坊《きんぼう》、沈丁花《ちょうじ》の油をつけてきたね。」
と通りがけに先生が言った。金坊とよばれたのは古帳面屋の娘で、清元《きよもと》をならっている子だった。ニコリと笑った、前髪から沈丁花の花をだして見せた。
 この学校の向うに、後日《ごにち》あたしが生花《いけばな》を習いにいった娘の家で、針医さんがあった。もすこしさきへゆくと、塀ぎわに堀井戸があって、門内に渡り廊下の長い橋のある馬込《まごめ》さんという家があったが、そこの女中がお竹大日如来だったのだといって、大伝馬町の神輿《おみこし》の祭礼《おまつり》の時、この井戸がよく飾りものに用いられたが、ある時は団七九郎兵衛の人形を飾り、ある時はその家にちなんだお竹大日如来がお米を磨《と》いでいて、乞食《こじき》に自分の食をほどこしをしているのだった。
 その隣家《となり》に清元の太夫《たゆう》とかいう瓢箪《ひょうたん》の紋の提灯《ちょうちん》をさげた駄菓子屋があった。石筆や紙や学校用品を売っていたが、売手のおかみさんが上手なので、近いところよりも、生徒はそこに集まった。おかみさんは学校用品よりも、青竹の筒にはいった砂糖|蜜入《みつい》りのカンテンや、暑くなるとトコロテンの突いたのをお皿に盛って買わせた。おかみさんはよく話した。清元のお師匠さんをしている自分の旦那《だんな》が、非常に声がよかったので仲間にねたまれて、水銀をのまされたので、唄《うた》う方が出来なくなったので、仕方なしに三味線の稽古《けいこ》をしているのだと、芸人のかなしみを、子供が感じるようにしみじみというのだった。だから、品物を買っておくれといった。
 そのすこしさきの町角に杯口屋《ちょこや》のおくんちゃんの家がある。お国《くん》ちゃんはあたしとおみき徳久利《どっくり》のように、長唄のおつきあい浚《ざら》いにお師匠さんに連れてかれた少女《ひと》だから、そのうちに書かなければならない。
 学校の一軒さきに大きな人力車宿《くるまやど》があって、お勘《かん》ちゃんという、色は黒いが痩《やせ》がたなキリリとした、きかない気の、少女《こむすめ》でも大人のように気のきいた、あたしのために、あたしの家へよく忘れものや、言伝《ことづけ》を言いにいってくれた娘があったが、後に吉原で奴太夫《やっこたゆう》という名でつとめに出ているときかされたことがある。その手前に表通りの砂糖問屋の磨きあげた、黒塗りの窓のある住居蔵があって、お糸さんという豊かに丸っこい娘さんの琴の音がよく聞えていたが、隣りに、とてもみじめな乏《まず》しい母子《おやこ》二人の荒物屋があって、小娘のおとめさんもお婆さん見たいにうつむいて、始終ふるえているように見えた人だった。
 その斜向《すじむこ》うに花屋があった。剥身《むきみ》のように幅の広がった顔と体の妹と姉とがいた。二人がいるうちは花屋の店もよけい賑《にぎや》かに見えたが、馬喰町《ばくろちょう》の郡代《ぐんだい》の矢場女《やばおんな》になってしまった。



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年4月2日作成
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