し》と、みみかきのついた後差《うしろざ》しをさした。鏡台の引出しには「菊童《きくどう》」という、さらりとした薄い粉白粉《こなおしろい》と、しょうえんじがお皿に入れてあった。鶏卵《たまご》の白味を半紙へしいたのを乾かして、火をつけて燃して、その油燻《ゆくん》をとるのに、元結《もとゆい》でつるしたお小皿をフラフラさせてもたせられていたことがあった。ある時、お皿の半分だけしか真黒《まっくろ》にならなかったが、アンポンタンらしい理屈を考えた。どうせ、毎日おばあさんが拭《ふ》いてゆくのだからと――今思えば、それが眉墨《まゆずみ》であったのだが――
祖母は身だしなみが悪い女《ひと》を叱った。
「おしゃれではないたしなみだ、おれは美女だと己惚《うぬぼ》れるならおやめ。」
文化生れのこの人は、江戸で生れはしなかったが、江戸の爛熟期《らんじゅくき》の、文化文政の面影を止《とど》めていた。万事がのびやかで、筒っぽのじゅばんなど、どんなに寒くても着なかった。
ある年九月廿日、芝の神明様《しんめいさま》のだらだら祭りに行くので、松蔵の俥《くるま》に、あたしは祖母の横に乗せられていた。紺《こん》ちりめんへ雨雲を浅黄《あさぎ》と淡鼠《ねずみ》で出して、稲妻を白く抜いた単《ひとえ》に、白茶《しらちゃ》の唐織《からおり》を甲斐《かい》の口《くち》にキュッと締めて、単衣《ひとえ》には水色《みずいろ》太白《たいはく》の糸で袖口の下をブツブツかがり、その末が房になってさがっているのを着ていた。日陰町《ひかげちょう》のせまい古着屋町を眺めながら、ある家の山のように真黒な、急な勾配《こうばい》をもった大屋根が、いつも其処《そこ》へ来ると威圧するように目にくるのを避《よ》けられないように、まじまじ見詰《みつ》めながら通った。
祖母は伊勢|朝長《あさおさ》の大庄家の生れで、幼少な時、童《わらべ》のする役を神宮に奉仕したことがあるとかで神明様へは月参りをした。よくこの人の言ったのに、五十鈴《いすず》河は末流《すえ》の方でもはいってはいけない、ことに女人はだが――夏の夜、そっと流れに身をひたすと、山の陰が抱いてるように暗いのに、月光《つき》は何処《どこ》からか洩《も》ってきて浴《あび》る水がキラリとする。瀬《せ》が動くと、クスクスと笑うものがあるので、誰と低くきくと、あたしだよと答えるのは姉さんで、そっと這
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