用のようにばかり書きましたが、それも幼時の感じを申述《もうしの》べただけです。
 伝馬町大牢は明治八年まで在存し、牢屋の原の各寺院は、明治十五年ごろから出来たことを、文中には書洩《かきもら》しましたからここに記入いたしおきます。
 我見《がけん》『日本橋』は、まだもっと書きつづけるつもりでおりますが、この集には、近親のものが重に書かれたため、したがって挿入した写真など、親《しん》に厚ききらいがありますが、これは当時の風俗を知るため、手許《てもと》にあって、年月に間違いのないものゆえに、私事を捨てて入れました。挿絵《さしえ》は天保《てんぽう》十四年に生れた故父|渓石深造《けいせきしんぞう》が六歳のころから明治四年までの見聞を「実見画録」として百五十図書残しおいてくれましたなかから、すこしばかり選び入れました。装幀《そうてい》は烏丸光康卿《からすまみつやすきょう》『後撰集《ごせんしゅう》』表紙裏のうつし、見返しは朱が赤すぎましたが、古画中|直垂紋《ひたたれもん》であります。
 この書は書肆《しょし》の熱意にて、極めて速《すみやか》に出来、ふりがなを一度失いしためにあるいは校正の麁洩《そせつ
前へ 次へ
全5ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング