じめたり、貧乏旗本や御家人《ごけにん》に金を融通して、扶持米をとりあげたり、高利をとつたりしたのだ。思ふに、これはとてもぼろい商賣だつたのに違ひない。算當知らずの二本差と、袖の下のきく商人のやうな役人たちが對手だから、面白いやうに儲かつたのであらう。寛永ごろには立派な者になつたから、この利益の多い職業の人數をかぎることを思ひついた。いざこざはさぞあつたであらうが、はじめ同商業は九十六人といふことに定まり後《のち》に百一人になつた。
 ――扶持米とは、一人一日の食料をもとにして、米を以て毎月給與する月給で、徳川幕府の定めは、一人一箇月の分が、玄米一斗五升。切米とは、扶持米を數囘に分けてか、又は金錢に取《と》り替《か》へて渡すことをいふので、手形の書替とは、切米券《きりまいけん》を、請取にしてもらふことで、請取手形が渡ると、受取人の名を紙に書いて割竹に挾み、大倉役所の藁苞に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]込んでくるのである。さうして、御家人、又は旗本の代理人となつて米を受取り、米を家へ送りとどけたり、殘りを金に代へてやる面倒を見る、それが札差の名の基になつてゐる。
 札差の手數料は祿高百俵について金壹分、百俵以下は一分を限度として談合のことになつてゐたが、それは表面だけのことで、米相場の高低、秤の具合など、赤ん坊對手の商業のやうなものであつたらう。幕末には幕臣の多くが遊墮《いうだ》になつて、狡くなり、中には札差を脅迫したり威したりしたでもあらうが、二百年もかかつて絞りあげた富は莫大な高である。しかも大岡越前守が、御米渡しも夏冬の二季と定めてからは、札差の利徳はことに大きくなつたのだ。貧乏旗本や御家人が、半年分の米を積んでおける餘裕のある筈はないから、みすみす半期の飯米《はんまい》が消えてしまはうとも、金に代へなければならない。それよりも、その殆が前期の利子に、元金の借に差引かれてしまつたのだ。私は子供のころ小旗本の老人に、幕末時代のそんな愚痴をきかしてもらつたことを覺えてゐる。御歴々でもさうだといつた。一年《いちねん》の取前高《とりまへだか》はみんな札差がとつてしまつて、諸拂にと少しばかりわたされるので困つてねだりにゆくといつた案配《あんばい》で、どつちが出入りなのだかわからなくなつてしまつて、お金も米も、先方の帳面によるのだから
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