と、涙もろいこと――それが僞《つく》りものでないだけに缺點だともいへる。だから、女性《をんな》を食用|鷄肉《かしわ》のやうにしか考へることを知らないあはれな男どもには、ちと筋がありすぎて――さうはいふが、娼婦性がすけないだけ、純なる彼女である、男思ひである。頭がないといつたが無智なのではない。生活共同戰線へたつときには、たのもしい連合《つれあひ》である。

「サンデー」から私へ求めたのは、西鶴が街を通る美女を書きのこしたやうに、あたしの眼に殘る下町娘のよさ[#「よさ」に傍点]を、話のやうに書けといふのであつた。それはもとより、江戸時代から轉化してきた明治中期のでよいのであらうが、女の子の眼に殘つたのは、中年の文豪の見た――着物などは通して見てしまつた、個々の女の、肌のよさ[#「よさ」に傍点]とは違ふ。

 現今《いま》の婦人《ひと》は、かなり個性に生きてゐるといふが、そのくせ流行《はや》りものに安くコビリつく。その點、古い下町の女はかなり自分に生きてゐた。勿論あのヨボ/\の歌右衞門が、福助といふ人氣|女形《おやま》俳優であつたころ、なにもかもが彼の紋ぢらしでなければ賣れなかつたといふこともあるにはあるが――とも角、美しい美しくないからいへば、當今ほどきれいな女は多くなかつた。目にもつかなかつた。町は一たいに黒つぽかつた。
 ふと、思ふと、下町娘の美より多く、わたしは年増の美の方が目に殘つてゐる。年増の美は下町の粹《すゐ》だつたかともいへる。洗髮の凄艶なる姿――

 本所に住む、角力の髮を結ふ職人があつた。その人が年をとつてからの思ひ出ばなしに、ある夕立の日、本所の裏町にすんでゐたが、外から駈けこんで、いきなりガラリと長屋の板戸をあけると、土間の薄暗がりに、すつとたつてゐた人影がある。アツといつて立ちすくむと、その人は笑ひながら出て來て、
「すまなかつたねえ」
 といつた。キモを落付けて見ると、拔けるやうな美女!
 ――拔けるやうなといふ譬をよく美女の場合にきいたが、一枚繪から拔けだしたといふのか、魂がぬけだしてきたといふのか、ともかくおもしろい言葉である――
 白張傘《しろはり》をひらいて雨の中にその女が出てゆかうとする。外は溝板が浮いてるやうな大降りだ。ものどりでないことは、その女の風姿《すがた》と、自分の家の貧しさでも知れてゐるので、
「傘の中より洩りますが、しぶきがこないだけでもおしのぎになれませう。」
 と止めた。さうはいつたが、自分は家の中にはいれなかつたほど、その女《ひと》が凄く美しかつたのだつた。黒い透屋《すきや》の着物、白はかたの帶、水色のえりうら[#「えりうら」に傍点]が見えてゐたが、無論素足で――
「一ツ目の辨天樣へおまゐりに來て――」
 と女はまた笑つた。家の中を見廻して、歸る時に懷紙《くわいし》にくるんで金をおいていつたが、あんな凄い綺麗な女はないと、彼は老年になつても繰りかへしてゐた。

 下町の好みは、髮をザングリと油でかためずに、ものものしく結ひあげない。櫛の齒も幾度もいれず、浴衣《ゆかた》の似合ふとりなりである。それだけに紋附きにはむかない。どうしても平民ごのみである。
 着物が地味だから半襟と前かけの紐がきはだつた。朱塗りの櫛が効果のあるやうに、簪もあんまり大きいのは※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]さない。いてふがへしの黒髮が、黒じゆすの着物の襟に流れていつて、秩父絹の裾裏の褄さきに走る。綺麗に洗つた足の指が、青竹色の吾妻下駄の鼻緒に揃つて、小砂利を輕く蹴かへす――肩には日傘、三ツ杵の白ぬき、または三ツ柏や瓢箪の染めてある稽古本入れのつばくろぐちをかかへてゐる。(つばくろぐちは稽古本を入れる袋)
 いま隣室《となり》の「女人藝術」編輯室には、いつものみんなの外に珍らしいお客さんたちも見えて、襖一重むかうでは、將來の女人としてのさま/″\な希望が机の上に、人の口に盛んである。そのとなりではかうして、一時代も二時代も前の、一地方的な、東京下町の娘のことをあたしは思ひ出さうとしてゐる。このあわただしい氣持ちで何が思ひだせよう。
[#地から1字上げ]――昭和四年十月・サンデー――



底本:「隨筆 きもの」實業之日本社
   1939(昭和14)年10月20日発行
   1939(昭和14)年11月7日5版
初出:「サンデー」
   1929(昭和4)年10月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
長谷川 時雨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング