こうとしたことが画餅《がべい》になってしまったのを、大変残りおしく思う。
わたしの知人の一人はこういう事をいってくれた。
「花柳界には止名《とめな》というものがあって、名妓《めいぎ》の名をやたらに後のものに許さない。それだけの見識をそなえたものならば知らず、あまりよい名は――つまり名妓をだしたのを誇りにして、取っておきにする例がある。たとえば新橋でぽんた、芳町《よしちょう》で奴《やっこ》というように……」
その芳町の名妓|奴《やっこ》が貞奴であることは知らぬものもあるまい。
奴の名は二代とも名妓がつづいた。そして二代とも芳町の「奴」で通る有名な女だった。先代の奴は、美人のほまれだけ高くて早く亡びてしまった。重い肺病であったが福地桜痴居士《ふくちおうちこじ》が死ぬまで愛して、その身も不治の病の根を受けたという事であった。後の奴が川上貞奴なのである。
貞奴に逢ったのは芝居の楽屋でだった。市村座《いちむらざ》で菊五郎、吉右衛門《きちえもん》の青年俳優の一座を向うへ廻して、松居松葉《まついしょうよう》氏訳の「軍神」の一幕を出した、もう引退まえの女優生活晩年の活動時機であった。小さな花束を贈ったわたしは楽屋へ招かれていった。入口の間《ま》には桑《くわ》の鏡台をおいて、束髪《そくはつ》の芳子《よしこ》(その当時の養女、もと新橋芸者の寿福《じゅふく》――後に蒲田《かまた》の映画女優となった川田芳子)が女番頭《おんなばんとう》に帯をしめてもらって、帰り仕度をしているところであった。八畳の部屋が狭いほど、花束や花輪や、贈りものが飾ってあって、腰の低い、四条派ふうの金屏風《きんびょうぶ》を廻《めぐ》らした中に、鏡台、化粧品|置台《おきだい》、丸火鉢《まるひばち》などを、後や左右にして、くるりとこっちへ向直《むきなお》った貞奴は、あの一流のつん[#「つん」に傍点]と前髪を突上げた束髪で、キチンと着物を着て、金の光る丸帯を幅広く結んだ姿であった。顔は頬《ほお》がこけて顎《あご》のやや角ばっているのが目に立ったが、眼は美しかった。
とはいえ当年の面影はなく、つい少時前《すこしまえ》舞台で見た艶麗優雅さは、衣装や鬘《かつら》とともに取片附けられてしまって、やや権高《けんだか》い令夫人ぶりであった。この女にはこういう一面があるのだなと、わたしはちょっと気持ちがハグらかされた。
わ
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