、猶更その負擔と欠伸は早く來る。
――わが生命《いのち》をいつくしめ。生活を興覺《きようざ》めたものにするな――
そこで、斬死《きりじに》の覺悟で對手の胸《むな》もとに飛込んでゆく。
わたしといふのんきものは、沼の主山椒の魚の嘆息にさざなみたつ、遙か遙かの頭の上で、水藻の花と咲いてゐる氣持ちでのどかに居る。時折、山椒の魚動き出しての問答が、
『水清ければ魚すまず、駄目だよ。』
『魚は住まずも月が澄む。』
も一度テストに答へます。
『操縱されてるやうに見える良人《をつと》なんて、煮ても燒いても食べられるのぢやない。』
[#地から2字上げ](昭和二年六月・女性)
沼の主山椒の魚を望んだ三上於菟吉の『崇妻道歌』に答へさせられた小文。
『崇妻道歌』一聯《いちれん》があると、彼の面目躍如たりでこの一文も生《いき》るのだが、殘念ながら函底に見當《みあた》らない。
底本:「桃」中央公論社
1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「女性」
1927(昭和2)年6月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月17日作成
青空文庫作成ファイル:
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