いか」という者もある。あるいはまた、「自分のやっている職務に忠勤する以上は、ナニ何所へ行って遊ぼうが、飲もうが、喰おうが、それは論外の話だ」という議論もある。学問の目的は、第四に述べたところのもの、即ち真理の研究を最も重しとすればそれで宜い。人間はただ真理を攻究する一の道具である、それでもう学問の目的を達したものである、人格などはどうでも宜いという議論が立つならば、即ち何か発明でもしてエライ真理の攻究さえすれば、人より排斥されるようなことをしても構わぬということになるが、人間即ち器ならず、真理を研究する道具ではない。君子は器ならずということを考えたならば、学問の最大かつ最高の目的は、恐らくこの人格を養うことではないかと思う。それに就いては、ただ専門の学に汲々としているばかりで、世間の事は何も知らず、他の事には一切不案内で、また変屈で、いわゆる学者めいた人間を造るのではなくて、総ての点に円満なる人間を造ることを第一の目的としなければならぬ。英国人の諺《ことわざ》に[#ここから横組み]“Something of everything”[#ここで横組み終わり](各事に就いてのある事)というがある。ある人はこれを以て教育の目的を説明したものだと言うた。これは何事に就いても何かを知っているという意味である。専門以外の事は何も知らないといって誇るのとは違う。然るに今この語の順序を変えてみれば、[#ここから横組み]“Everything of something”[#ここで横組み終わり](ある事に就いての各事)ということになる。即ち一事を悉く知るのである。何か一事に就いては何でも知っているという意である。世には菊花の栽培法に就いて、如何なる秘密でも知っているという者がある。あるいは亀の卵を研究するに三十年も掛った人がある。そういう人は、人間の智恵の及ぶ限り亀の卵の事を知っているであろう。その他文法に於ける一の語尾の変化に就いて二十余年間も研究した人がある。そうするとそれらの事柄に就いてはよほど精通しているが、それ以外のことは知らぬ。これは宇宙の真理の攻究であるから、第四に述べたところの目的に適《かな》っている。されど人間としてはそれだけで済むまい。人間は菊の花や、亀の卵を研究するだけの器械なら宜いけれども、決してそうではない。人間には智識あり、愛情あり、その他何から何まで具備しているを見れば、必ずそれだけでは人生を完《まっと》うしたということが出来ぬ。してみれば専門の事は無論充分に研究しなければならぬが、それと同時に、一般の事物にも多少通暁しなければ人生の真味を解し得ない。今日の急務はあまり専門に傾き過ぎる傾向をいくらか逆戻しをして、何事でも一通りは知っているようにしなければならぬ。即ち菊の花のことに就いていえば、おれは菊花栽培に最も精通している、それと同時にちょっと大工の手斧ぐらいは使える、ちょっと左官の壁くらいは塗れる、ちょっと百姓の芋くらいは掘れる。政治問題が起れば、ちょっと政治談も出来る、ちょっと歌も読める、笛も吹ける、何でもやれるという人間でなければならぬ。これは随分難かしい注文で、何でも悉くやれる訳にも行くまいが、なるべくそれに近付きたい。いわゆる何事に就いても何か知ることが必要である。これは教育の最大目的であって、かくてこそ円満なる教育の事業が出来るのである。ここに至って人格もまた初て備わって来るのであろうと思う。
然るに今日では妙に窮窟なることになっていて、世の中に一種偏窟な人があれば、「あれはちょっと学者風だ」というが、実は人を馬鹿にした話である。また自分も一種の偏窟な人間であるのを、「おれは学者風だ」と喜んでいる人もあるが、僕の理想とするところはそうでない。「あれはちょっと学者みたような、百姓みたような、役人みたような、弁護士みたような、また商人のような所もある」という、何だか訳の分らぬ奴が、僕の理想とする人間だ。然るにそれを形の上に現わして、縞の前垂を掛けているから商人だ。穢《きたな》い眼鏡を鼻の先きに掛け、髭《ひげ》も剃らず、頭髪を蓬々としていれば学者だといい、その上傲然として構えていれば、いよいよ以てエライ学者だというように、円満なる発達の出来なかった者を以て学者風というのは、そもそも間違った話だと思う。けだし学問の最大目的は人間を円満に発達せしむることである。
今日は学問の弊として、往々社会に孤立する人間を造り出す。彼のギッヂングスの社会学に「ソシアス」(Socius)という語があるが、これは「社会に立って、社会にいる人」の意である。実にその通りで、いやしくも人間がこの世に在る以上は、決して孤立していられるものでない。人[#「人」に白丸傍点]という字を見ても、或る説文学者の説には、倒れかける棒が二本相互に支う
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