だから、買つて行けよ」
「だつて、そんなもの……」
 肺炎で、妊娠してゐて、医者がもう駄目だと云つてゐると云ふ病人に、酸素吸入をやつてゐると云ふ病人に、下らない売薬なんて買つて行つたところでどうなるものかと、私は思はずにゐられなかつた。私は昨日木村へ寄つた時に、姉の病気を軽くみてろくに側にもゐなかつた自分が悔いられた。昨日に限つて、原町の家に宿《とま》らずにゐた自分が悔いられた。母にお金を貰つて、好い気になつて、呑気《のんき》に放埒《はうらつ》にすごした昨夜の自分が悔いられた。佐治を誘つて、十二時近くまで切通しの鳥屋で酒を飲んでゐたり、宿へ戻つてからも、隣室の谷崎潤一郎氏に誘はれて、竹久夢二氏や渡辺氏などと、明け方近くまで勝負事をしてすごした自分が悔いられた。
「でもね、買つて行つた方が好いだらう。母あさんがさう云ふんだから」
 兄は、無理に強《し》ひると云ふ風には云はなかつた。私は兄を気の毒に思はない訳に行かなくなつた。普段から、私などとは比較にもならないほどに、売薬の効果などを信用しようとしない科学者の兄が、意固地《いこぢ》に自分を守らうとはしずにゐる。母の、あわてふためいてヒステリックになつてゐる様子なども思ひやられて、こんな場合に兄と、口論めいた口を利くのがイヤだと私は思つた。
「買ひに行つても好いけど……」
 私は、急いで着物を着かへながら、何時《いつ》もの横着で一寸の間使に行き渋つてゐたのだと云ふ風に、兄の手前を装つた。
「行くかね」と、兄は微笑して、「――行くんならね、普通の生薬屋《きぐすりや》へ行つても駄目なんださうだ。広小路の先の、たしか黒門町あたりに、ゐもり[#「ゐもり」に傍点]の黒焼屋が沢山|列《なら》んでゐるね、あそこで売つてゐるんださうだ」
「ゐもり[#「ゐもり」に傍点]の黒焼屋だつて……。イボタの虫つて云ふもんなんだね」
 私は、兄と目を見合して寂しく笑はずにはゐられなかつた。一瞬間、私の胸には、姉の危篤といふことから来る重ツ苦しい圧迫が、影を潜めてゐた。姉のために、ゐもり[#「ゐもり」に傍点]の黒焼屋へ、時代錯誤の薬を買ひに行くと云ふ風な古めかしい使が、何か淡い哀愁を誘はれる好ましい仕草にも思はれたのだつた。
「ぢやそれを買つて、直ぐ木村へ行つてみませう。兎も角一緒にここを出ませう」
「うん。さうしよう。寒くないやうにして行かなくてはいけないぜ」
 部屋を出て行かうとする私へ、背後《うしろ》から兄は、故意《わざ》と乱暴に外套《ぐわいたう》をかけてくれた。センチメンタルな愛情の表現を恥ぢると云ふ風に……。さうして私は兄と連れ立つて長い階段を下りて、菊富士ホテルを出た。
 宿の前には、一昨日の晩から昨日へかけて降つた雪が、根雪になつたまま陽《ひ》を受けて弱々しく光つてゐた。私は飲み過ぎと寝不足とで頭がクラクラしてゐた。顔中の皮膚が硬張《こはば》つて、頬《ほ》つぺたが妙に突つ張りでもするやうな不愉快な気持でゐた。ぼんやり立つて、玄関で編上げの靴の紐《ひも》を結んでゐる兄を待つてゐたが、待つてゐると、何かしなければならないことが沢山あると云ふやうな、苛々《いらいら》した気持になつてきた。居ても立つてもゐられなくなつたのだ。――今日お昼時分に印刷屋から、「新思潮」の二月号が刷りあがつて来るはずである。佐治に、発送の手伝ひをすると約束をして置いたのだがと、それが一番重大な気がかりでもあつたやうに、思ひ出すと放棄《うつちや》つては置けないやうな気になつた。私は一寸の間迷つてゐたけれども、玄関に引返して、「用があつて佐治のところへよるから」と兄に云ひ置いて、直ぐ近所の、素人《しろうと》下宿の二階に住んでゐる佐治のところへ馳《か》けつけた。
 その朝に限つて、到底まだ寝てゐることだらうと思つた佐治が、起きてゐた。もうキチンと座敷の中がとり片づけられて居、トランプをするために買つたと云ふ大きな一閑張《いつかんば》りの机が、座敷の真ン中へ、彼の花車《きやしや》な体をぐたりと靠《もた》せかけさせるために持ち出されてゐた。彼はパイプを啣《くは》へて、悠々《いういう》と青い煙を吐いてゐた。
「やあ」
 佐治は、座敷の入口に立つてゐる私の姿を認めると、快活に呼びかけた。
 私は彼の口から、彼の幸福さうな赤い顔に似合しいやうな浮々した言葉が、無造作《むざうさ》に浴びせかけられることを思ふと堪《たま》らない気がされた。昨夜の放埒《はうらつ》な記憶に触れずにすむためには自分の方から、何か先に口を切らねばいけないと思つて、暫《しばら》くの間云ふ可《べ》き言葉を頭の中で整理してゐた。
「……今日、雑誌の発送の手伝ひをするつて約束しておいたがね、今一寸前、兄貴がやつて来て、直ぐこれから家へ行かなくてはならない。木村の姉さんがね、死にさうな
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