んて云ふ訳の解らない売薬が何で瀕死《ひんし》の病人に利《き》くはずがあらう。幾ら母の云ひつけであらうと、そんなものを買ひに行つてゐる間に若《も》し姉が死んで了つたらどうしよう。かう思ふと私は腹が立つてならなかつた。けれども、背後から、厩橋《うまやばし》行の電車が徐行して来た時には、私は乗ることに運命づけられてゐるかのやうに、その電車に飛び乗つて了はない訳に行かなかつた。
 電車は満員であつた。本郷三丁目で留《とま》ると、下車する人々のために長い間|手間《てま》どつた。私は人に押され押され、車掌台に立つて往来を眺《なが》めてゐた。目の前に建て連《つら》なつた店々の屋根から、軒から、解けた雪の雫《しづく》が冷たさうにポタポタと落ちる。かつ[#「かつ」に傍点]と陽を受けて、雫に濡《ぬ》れた飾窓《ショウウヰンド》のガラスが泣いたやうにギラギラ光つてゐた。時折は、本郷|巣鴨《すがも》行や本郷|白山《はくさん》行の電車が、勢よく響を立てて赤門の方へ走つて行くのが見えたけれども、さうしてあれにさへ乗つて了へば、直ぐ木村の家へ行けるのだと思つたけれど、何と云ふ理由もなく私は、あんな勢の好い電車には到底乗ることが許されない自分なのだと云ふ風な気がして、何時までも動き出さない電車に苛々《いらいら》しながら、悲しい気持で車掌台に立つてゐたのだ。降りる人が降り切つて了ふと、待つてゐた人々が一斉にドヤドヤ乗り込まうとした。その人波の向うに、何処かの店の飾窓《ショウウヰンド》に沿つて、ぽつりと歩いて行く洋服を着た男が目についたが、それが、兄らしかつた。よく見てゐるとやつぱり、兄だつたのだ。私はもう矢も楯《たて》も堪《たま》らないやうな気がして来て、急いで車掌に十銭銀貨を握らせたまま電車を下りた。
「どうしたんだ……」
 兄は私の姿を認めると、ギクリとしたやうにふり向いて云つた。
 私は顔一杯に弱々しい微笑を湛《たた》へて、詰《なじ》られでもしたやうな、兄の強い口調をはぐらかして了《しま》はうと思つてゐた。
「電報をかけて来たの」
「いや、真砂町《まさごちやう》のは三等局で電報はかけられないんだよ。これから本郷局へ行く気でゐるんだが……」
「さう、ぢや本郷局の前まで一緒に行かう」
「歩いて行く気なのかお前……」
「えゝ」
 と、曖昧《あいまい》に答へながら、媚《こ》びるやうに私は兄の顔を視戍《みまも》つてゐた。兄と一緒にさへ居られれば力強い気がされてゐたのだつた。
「駄目だよ。歩いて行つたんぢやおそくなつちまふだらう……」
 兄はかう云つて、私の体に喰つついて来たが、ふと、私の外套《ぐわいたう》の前をキチンと合せてくれたり、一つもかかつてゐないボタンを、丹念に嵌《は》めてくれたりした。
「直ぐ電車で行つておいで……」
 私は悲しくなつた。イボタの虫なんて買ひに行くのはイヤだと駄々をこねようと思つたが、へんに唇が歪《ゆが》んで来るばかりで、口を利《き》くことが出来なかつた。黙つて兄から顔を視守られてゐると、どう反抗しようもなくなつて来て、丁度先の電車が動き出さうとした機勢《はずみ》に、踵《くびす》をめぐらして、それに飛び乗つて了つたのである。
 私は車掌台にやつと立つて、冷たい真鍮《しんちゆう》の棒につかまつてゐた。車掌や車中の乗客からジロジロ顔を視守られてゐるやうな、侮蔑《ぶべつ》されてゐるやうな、腹立たしい気持でゐた。それでも、何時《いつ》ものやうに私は、心の中で彼等を蔑視《さげすみ》かへす気力がなかつた。少し強い口調で何か言葉をかけられでもしたら、誰にでもベコベコ頭を下げて了ひさうなイヂケタ気持になつてゐるのだ。疲れてヘナヘナになつてゐる体を靠《もた》せかけるやうにして、窓のガラスに顔をぴつたりよせた。電車の震動につれて、歯と歯とがガクガク噛《か》み合せられ、寒いやうな緊張が、体全体に漲《みなぎ》つて来るのが感じられてゐたが、不意にもう姉は死んで了つてゐると云ふ風な気がして、目の中が熱くなつた。ぽつりと涙が落ちた。鼻筋をつたふ涙の、かゆいやうな感じを覚えたが、私は気恥かしくなつてそつぽを向いた。
 ――白い毛糸の、ボヤボヤした温かい襟巻《えりまき》に包まれながら、姉に抱かれながら、この、本郷の通りを俥《くるま》に乗つて走つてゐたことがある。小さい弟を抱きかばつてゐる、若い娘らしい姉の得意と喜びとをちやんと私は知つてゐた。知つてゐながら狡《ずる》い小さな私は、甘えて無邪気に眠つてゐるやうなふりをしてゐたのだ。姉の親友の、学習院だつたか附属だつたかの小学校へ通つてゐる、自分と同じ年位な弟さんを思ひ浮べて、明日から、姉のために、その品の好いおとなしい弟さんに出来るだけ自分を似せようと思ひながら……。十五六年も前の、そんな記憶がちらと頭に浮んで来た。――姉に、
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中戸川 吉二 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング