へ着いた。ここには大勢の人に出迎われて、親戚もあれば旧友もあり、多方面の人々であったが、こんな時には哲学で悟を開いた私もやはり訳もなく嬉しい。その晩は従弟で医者である天岸一順の宅へ落着いた。この後ちはこの宅と娘婿の山路一遊の宅とあちらこちらと止宿して、二週間ばかりも滞在したのである。そこでその翌朝からは殆ど間断なく来訪者があって、久濶を話し合うのでいよいよ嬉しくも珍らしくも感じたが、また随分と疲労も覚えた事である。或る日は婿の一遊が松茸狩りに連れて行こうというので、城下からつい二里半ばかりの平井谷というへ汽車で行って、松茸を取った、尤もこれは、山主が予て囲って置いて、それを勝手に採らせて、採った松茸は秤で量って値を取るのである。だから別に捜さないでも松茸は一面に生えているので、いわゆる茸狩という興味はない。けれどもその取ったままの茸を山中の池の堤で石の竈で煮たり焼いたりして、酒を飲み飯を喰う、それだけはちょっと普通の家屋で喰うよりは興味があるのである。
 いよいよ除幕式の日になったので、その日は電車で道後公園へ行ったが、妻及び私の親戚は凡て賓客として待遇せられて、予てこの建碑に厚意を寄せられた人々はいずれも参会した。そして柳原極堂氏の建碑の始末に関する報告があり、旧温泉郡長の大道寺一善氏が私に対する頌賛的の演説があり、私もそれに答えかたがた厚く謝辞を述べて、この碑は私の如きものの記念というよりは、故旧に対して厚い同郷諸君の徳誼の表彰碑だといって置いた。それから直に県公会堂で大歓迎会を開いて下さるというので、それに赴いた。これは県庁の隣に新築されたもので、市の公会堂の萱町《かやまち》にあるものとは全く別なのである。私は始めて来たのだが、会場も広濶で数多の食卓が並んでいる。ここでも妻及び私の親戚は凡て賓客として待遇せられたのである。そして県官の側では、内務部長や警察部長や、また県立諸学校長や、県会議長や、実業家の主なる人々も出席され、その他の知人や俳句上の同人も多く出席して下さった。この席では郷里の年長者である、旧農工銀行頭取の窪田節二郎氏が総代として私のために頌辞を述られ、次に警察部長大森吉五郎氏と、今一人とが同じく頌辞を述べられた。私も起って挨拶をして、一体私は理窟を調べる智識には、いささか得意もあるが、実務に当っては何らの働きもない、ただ偶然に藩から県と学務の責任者となり、東京へ来ても文部省で教育上の調査を為し、なお松山学生の寄宿舎の監督をして、これが四十余年にもなっているが、人々の幇助を得て幸に大いなる失墜もなかった、しかるに今日かかる盛大なる歓迎を受くるというは望外の事である。が、これは全く私が七十一歳まで長寿を保ってまだ多少働いているという事に同情を寄せられたので、一面からいえば養老の恩典である、養老の典とすれば、私からいうと如何だが、また郷里の美事である、さすれば今後は、私以上に郷里のために力を致した老人に対してもこの典を挙げてもらいたい、そして私はいわゆる『自隗始』の心得でこの歓迎を受けて置くというような事を述べて置いた。それから多くの人が起って来て盃の取やりをされたが、そう酔払っても困るから、多くは吸物椀へ翻して、よき頃を見計って妻や親戚と共に退席した。
 この外郷里の青年のために設けられた、松山同郷会より招かれて、多くの青年少年のために訓諭をした事がある。また伊予史談会というが、私の郷地の老人であるのみならず、東京では史談会の幹事でもあるから、何か話しをせよという事で、これは田内栄三郎氏の宅の楼上で開かれた。そこで私のいったのは、凡て人間として歴史は知らねばならぬ、横に空間の智識を広めると共に縦に時間の智識を伸ばすという事は、必然的のもので、歴史を知らねば、人間の一方面が欠けているのだ、しかるに今の若い者は、西洋辺りの事物は研究するが、わが生れた、日本の歴史はそっちのけにしている。それは不都合じゃないかという事から説き起して、それから私の出合った維新前後の事件や、なお人から聞いた事件を雑えて、一場の責を塞いで置いた。この外にも、学校連中が私が旧来の関係もあるので、会を催して話しを聞きたいと需められたが、婿の一遊が私をいたわってそれを断ってしまった。私はお喋り好きだから、遣ってもよいと思ったのだがそれは機会を失った。それから他の会では、旧友会というのが催されて、多くは明教館の同窓で少年の昔を話し合ったのは特種の愉快があった。俳句会としては、柳原極堂氏が主催で私の檀那たる正宗寺で一回あったが、随分多数の人であった。私はこの席では最近の句風の変調を起した事に話し及んで、これも西洋の文学侵入に伴う結果だから、別に咎めるにも及ばん、私の見解からもっぱら娯楽的に俳句を扱うのだけれども、それはそれ、これはこれで、各作りたい句
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