州への御沙汰では、『定昭儀は賊徒要路の職に罷在逆謀に組し候罪不軽』とあって、まだなかなか寛典を蒙りそうな様子でない。この事が知れると我藩の温和党は俄に騒ぎ立って、この上は藩主に代って当時大阪に供をしていた家老の菅と鈴木とに割腹させ、その首を差出して申訳させねばなるまいということになって両人の家老の宅へ詰かけ、もし聞入れねば刺殺そうという事まで申合った。すると過激党の側では、そんな卑屈な事をするには及ばぬ、家老二人はどこまでも殺させないといって、壮士等はその邸を護衛して、強いて押掛けて来れば切払うということになったが、藩主始め藩庁ではそんな事の起るのを心配しまた右の朝廷の御沙汰に賊徒要路の職とあるのは、彼の老中上席を勤めていられたものとの誤認であるから、それを弁解されて、その当時既に辞職していらるる事実を明にしたなら、かかる厳重なる御沙汰も自然に取消さりょうと考えて、この事を土州総督へも十分に通告したので、それを山内容堂公等にも十分斡旋せられた結果、五月下旬を以て改めて寛典の御沙汰となって、定昭公は蟄居を命ぜられ、勝成公に再勤を命ぜられて、十五万石はそのまま下さるる事になった。尤も勤王の実効として軍費金十五万円を献納せよという別の御沙汰もあった。そこで我藩上下一同まず愁眉を開いたことである。
 遡っていうが、この以前藩主の奥方と祖母君は江戸の邸にいられたのを、士州総督へ出願の上藩地へ帰らるることになり外国船二隻を借受けて海路より帰着せられて、これは千秋寺という寺に住《すま》わるることになっていた。
 いよいよ我藩も元の如くなったので、土州長州の両軍もそれぞれ退去するし、再勤された藩主勝成公は三の丸へ帰任せられた。そうして定昭公は東野の吟松庵というお茶屋へ移られ、ここで謹慎せられることになった。また私の一家も堀の内の宅へ帰住したが、土州の軍隊の号令厳粛であったとはいえ、随分汚なく住み荒して、私どもの残して置いた調度万端は散々に取り扱って、有る物もあったが無いものも多かった。
 この六月私は妻を娶った。これは継母の里の春日八郎兵衛の長女で、即ち継母の姪に当るもので、予てより約束が調っていたのだけれども、父の譴責やまた我藩の事変のため延引していたのを、もう憚ることもないから婚儀を挙げたのであった。そうして間もなく私は小姓勤務のまま明教館へ寄宿を命ぜられて、また往年の如く学生となった。
 この頃朝廷には諸藩の重役の職名を一定されて、執政参政というものを置かれたので、我藩でも家老は総て執政となり、参政に当る職はこれまで無いのだから、新に抜摘を以て命ぜられることになり、私の父も参政となった。また父と反対党とも目されていた戸塚助左衛門も同職となった。この戸塚は去年要路者排斥建議の殆ど主謀であったから、行為不穏というのでこれも要路者の責罰と共に責罰されて目付願取次となっていたが、その頃或る夜白衣のままで私の宅へ来て、父とは旧同僚でもあった辺から、一個人としての打解けた談をした。父ももとよりそこは同じ襟懐だから、長い時間膝を交えて談し合った。ここらはちょっと面白い交際であったのだが、料《はか》らずまた職務上でも坐席を並ぶることになったのだ。なお父の役については、前にいった勘定奉行になって、間もなくまた目付役に復していたのだが、この度家老に次ぐ重職となったので、私の一家は俄に家来なども多くなるし、家内が総て御歴々生活をすることになった。尤もこの年の七月に曾祖母も亡くなっていたので、今は継母と末弟彦之助と父と私とのみになったのである。
 この曾祖母は向井氏で藩では有名な軍学者三鶴の孫だが、戸主たる兄が或る不心得から家名断絶となって、実兄の竹村家に養われ、そこから私の家へ嫁したのである。しかるに向井家断絶より六十余年後、ちょうど私が十一歳で江戸から藩地へ帰った時、右の兄なる人が八十以上の高齢でまだ生きていて、三津浜に潜かに住んでいたが、絶えて久しき妹に面会がしたいと人を以て申越した。すると曾祖母は、『家名を汚した人には生前に逢う心がない。』と毅然として拒絶した。女ながらこんな気性の人で、亡くなったのは八十九歳、それまで小病もなく、時々煩うのは溜飲位であった。而してその終りは全くの老衰で、何の苦痛もなく両手を胸上に合して眠るが如く逝《ゆ》いた。その状態は今も私の目に残っている。
 この年の末に私は小姓そのままで、経学修行として京都へ行けとの命があった。而して明教館からも七等に進められた。そこで私はいよいよ藩地外で漢学生々活をすることになったので勇ましく出発した。この頃従来松山藩へ幕府から与えている領地家督相続の証として黒印ある書面(即ち将軍の御判物)悉皆を朝廷へ納付せよとの御沙汰があったので、それを入れたる長持を私がこの京都行のついでを以て保護して行けと
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