、暗中で悪戯におどかされたり、ひどい目に合わされたりした。また蒲団蒸しといって、或る一人を蒲団に包んで圧伏せ、息も断え断えにさせた事もあった。しかし私は自分の学力や父の役目の関係から、別段人にいじめられたこともなく、かえって荒武者連中にも多少は憚られて、『助さんが居る』とか、『助さんに聞える』とかいって、何ら腕力もなく武芸も劣等なものながら、どうかこうか好い境遇を得ていたのである。
 ついでにいうが、右の如く市中へ肉など買いに行くという事は、婢僕を使っている士分の家では主人は勿論家族でも多くはせなかった。もし買う事があれば、僕を遣わすか、あるいは宅に呼び寄せて買うので、呉服小間物類は別として、そうしていた。そこで私は父の役目もあるから一層この束縛に就いていたのだが、或る年忘年会の幹事に当ったので、他の幹事に率いられて肉を買いに行った。夜分とはいえ少し極り悪く感じていると、他の者が『助さんはさぞお困りであろう。』といって労わりながらも冷やかしたことがあった。
 この寄宿舎は食事だけは藩命の者と否《あ》らざる者とを問わず、藩より支給せられて、多くは賄方が請負で仕出をしていたが、あるいは小使をして拵えさせた時もあった。まず朝は漬物、昼は煮菜と漬物というあたりであった。そして毎日その頃の七ツ時から六ツ時までは帰省といって、宅の父兄の機嫌を訪ねに戻る例であったから、夕飯だけは各自宅で食った。その出入は当番の先生に一々報告した。また夜遅くなるとか、宅に止宿するとかいう時は、理由を述べて先生の承認を得たのである。かく二度の食事は寄宿舎でするのであるが、若い連中のこととて、菜は少量で不足する。そこで武芸の稽古場へ行くとか自宅に帰っている者とかがあると、これはもう余ったのだと、他人の膳に箸をつけて二人分をたべる。あるいは二人でそれを分けてたべる。そして舌打している所へその本人が帰って来て、大いに面目を失うことも随分あった。また飯も一つの小さい飯櫃で銘々に与えられていたので、大食の者は足らないから、小食の者のを貰って食う。何某は小食だからいつも残飯があるとて大食の者にねらわれた。私などもそのねらわれた一人で、恩恵を施していたものである。
 かくてその年も明《あけ》たが、彼の京都で長州兵が禁門に発砲したことがあったり、その前後も藩主や世子は京都江戸へ奔走されていたので、兵員も多人数を要することになり、従来の士分以上では不足を生じた。そこで、特に文武の芸勝れた者は、嫡子|及《および》二男三男等も勤仕を命ぜられることになり、武芸の段式で中段以上、学問で六等以上の者は御雇になるということが始まった。これは給料としては一年銀六枚を下さるのみであるけれども、いずれも名誉として勤めた。
 一体戸主以外に嫡子は番入という事があって、幾年目かに廿五歳に達している者はこの番入を命ぜられた。而して親同様に一人前の士分となって、親が死ぬるか隠居をする――六十歳になると隠居するを許された。――までは、別に三人扶持を支給された。またこの外に不時番入といって、不時に番入を命ぜられたが、これは武芸の中段以上、学問の六等以上を、三つ得ている者に限られ、やはり嫡子のみであった。而して二、三男となれば、かような勤仕をする機会がないのみか、一生妻を娶る事も出来なかった。この事は大名旗本及諸藩士も同様であったから、これらの二、三男を冷めし喰いと呼ばれていた。しかるに今度この冷めし喰いが、妻帯とまでは行かずとも、勤仕を命ぜらるる事が、我藩に始まったので、二、三男の喜びは如何ばかりであったろうか。尤も従来二、三男といえども、他家の子のない処へは養子に行く事は出来たから、一生この冷めし喰いでいる者は割合に少なかったのではあった。
 しかるに私は学問では優等生ではあったけれど、この頃の風として同年輩の者は皆或る年数を経た上一様に等を進められたから、まだ六等を貰わなかった。それに武芸の方は劣等生であったので、元服と共に切組格となり、次いで切組とはなったがまだとても中段にはなれない。しかし他の同年輩の朋友は多く武芸の方では中段であるため、段々とお雇になって行く。取残された私は人に対しても恥かしくて気が気でない。この上は撃剣の方で中段を得んものと、この年の下半期には寄宿生でいながら日々橋本の稽古場へ通って人一倍励んでみた。が、半年位の勉強だから、いつも七月と十二月の段式の昇級をさせる時が来ても、私は依然として切組に止まった。元々嫌いな武芸はもうそれだけですっかり気がくじけてその後は勉強をせなくなった。
 その頃藩でもいよいよ戦備をせねばならぬことになったので、軍学をも奨励して、従来あった源家古法の野沢家と、甲州流の某家とに意を嘱して弟子を奨励せしめた。尤もこんな軍法では実用にはならぬのだけれども、藩の
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