るから、世子その他の人々もこの事については頗る心配されて、療養上の保護も厚く受けていた。従って世子が京都を引上げられる際も、特に御側医師西崎松柏という者を残してもっぱら父の療養をさせられた。また父の弟の浅井半之助というが世子の小姓(他でいう近習)をしていたのを、特に随行を免ぜられて父の看護をすることを許された。なお父が目付であったため、目付手附の卒で伊東与之右衛門というものを、その筋から病気の用弁に残されていた。この外父が身分相応の従僕も三人ばかりいたので、この寺院における父の一行だけでもなかなか多人数であった。
 私は着くや否父の並びに床をとってもらい、打臥したが、右の西崎医の診察では瘧《おこり》だというのでその手当をした。数日間は随分熱も高く出て苦しかった。そこで或る京家の人からは禁裏の膳のお下りだから、これを頂くと落ちるといって、少しばかりの御膳を貰ってたべたことなどもあったが、なかなか落ちない。私はいつもそうであるが、熱が出るときまったように頭痛がするので、この度もそれが強く起ったが、ある時多量の鼻血が止めるにも困るほど出て、それが納まると、頭痛も共に止った。その頃は西洋の薬も多少は用いられていたので、西崎医は申すまでもなく漢方家であったにもかかわらず、幾らかその用法を知っていて、機那塩即ちキニーネを服せしめた。苦《に》がくて飲みにくいから、あの粉を飯粒に交えて幾個かの丸薬にして、それを三回分飲んだ。するとその翌日から発熱をしなかった。瘧は落ちたのである。しかしまだ衰弱しているので、父の方も十分静養せねばならぬところから、更に数日そのまま滞京していた。
 浅井の叔父は、その頃大分酒を飲み、父の枕頭でもちびりちびりと盃をあげるほどの、ちょっと変った気分であるし、父の病も快方に向って安心してもいたろうから、酔うとよく詩吟をした。それは山陽の天草洋や文天祥の正気歌などで、就中尤もよく吟じたのは李白の『両人対酌山花開、一杯一杯復一杯、我酔欲眠卿且去、明朝有意抱琴来。』を繰返し繰返し吟じたのは、今も私の耳に残っている。父もやかましいと思って困ったようではあったが、止めることもしなかった。この叔父は多少詩も作りまた漢学の素養もあったので、親子兄弟三人で随分そんな話もしたのであった。
 藩の公用も父が少し良くなったために、京都に残っている目付や藩邸の留守居などが時々来て相談することもあって、私もわからぬながらそれを病床で傍聴したこともあった。その内父もいよいよ快癒して帰藩の旅をしてもよいということになり、私も勿論快復したので、そこでかつて京都留守居を引上る時に用いた高瀬舟をまた雇切って、伏見へ下り、伏見からは例の三十石の昼舟で大阪へ下ったのであった。西崎医は伏見まで送って来た。浅井の叔父はやはり船も同行したように記憶している。
 大阪からの船は、折から藩の大きな荷船の来ているのが無かったので、別に早船を藩から雇ってそれに乗せられた。この船にも小さな屋根があって、父その他の数人もその下に寝ることは出来た。一体小形で、帆も上げるが主としては櫓を用いた。この櫓は随分早いものであった。これは大阪で雇入れたので、船頭もやはりその船に属した者ばかりである。藩の船手は一人だけ乗組んでいた。前にもいった如く藩の船なら船手も数人いて、藩地の浦々で徴発するかこ[#「かこ」に傍点]に向っては頗る威張ったものであるが、この商船となると自分一人であるので、隅に小さくなっていて何事も差図などはせない、全くお客様という顔をしていたのは、誰もひそかに笑った。
 この航路は天気もよく、存外早かったが、ある港で潮待をしていた時、近所に碇泊している或る船の中で味噌汁に菜葉を入れたのを喰っていたのが、私は何だか羨ましくなり直様《すぐさま》家来に命じ同じ味噌汁を作らせた。こんな船でもやはり米その他菜の材料などは父の手元で積込で三度の食事を弁ずるのであった。尤も大阪で藩邸の者がいわずともそれぞれ実際の支弁はしたものである。
 三津浜へ着くと、親族知己が出迎えに出て、例の如く行列を立て親子駕をならべて松山の邸へ戻った。門には僕が迎え内玄関には二人の祖母や、継母、弟などが待っていて、皆快復して帰ったことを喜び迎えた。就中継母は涙もろい方であったから、父や私が病後の衰弱した様を見ると、悲しさや嬉しさで、私を撫でながら涙を落したことを覚えている。
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   八

 私はもう十七歳になっていたけれど、父の不在のために元服していなかったから、体が全く快復すると共に元服をした。それには昔は烏帽子親ともいった如く、最初の剃刀をあてるものは特に目上の人を選ぶ例であったから、父の実父たる菱田の祖父がそれをしてくれた。同時に助之進という通称の外に師克という実名をつけた。これはその頃名
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