旅人が沢山寝ていた。多くは無作法な者ばかりであったから、変な感がして容易に眠る事が出来ぬ、その中に碇《いかり》を上げ帆を捲いて船を出したが、進むに従って横波が船の腹をドサンドサンと打って動揺して、それが段々|甚《ひど》くなった。船に弱い私は直ぐ胸が悪くなり、遂には嘔気を催すにも到った。それを僕が親切に介抱してくれた。こんな風なのが何でも半夜さばかり掛った末に或る港へ着船した。
夜が明けて聞いて見ると、それは備前の国の田ノ口という港であった。備前の国の陸地ではこの田ノ口が最も海中に突出していたから、讃岐よりの航路が短いので、多くの船はここへ着いたものである。
そこで再び船が出るかと思うと、一向に出る様子がない。最早大分風も歇《や》み掛っているようであるに、船頭どもは出船の用意をせないのみか、その主なる者は港へ上って小料理屋で酒を飲み、安芸者でも上げたと見えて、船へ帰ってから惚気《のろけ》話などするのが聞える。客はいずれも退窟して、『いつ出るのか。』と問うと、船頭は『まだこの風向きでは船は出せぬ。』と殆どあつかむような口気で答える。不平だけれども、自分ではどうも出来ぬから拠所なく黙ってしまう。その中に一人の客は『もう船で行くのは止めて陸にしよう。こう長く待っていては用事が差支える。』といって、支度をして上陸した。すると我も我もと三人五人続いて上陸する。私もかく滞船していては京都へ上るのも遅れる。いっその事上陸して山陽を行こうと思い付いた。一つは前夜の横波で苦んだ事にも懲々《こりごり》していたので、初は僕が同意せなかったにもかかわらず、遂に命令的に上陸の支度をさせた。
この田ノ口港の近傍に由賀山という寺があったが、これはカナリ信仰の多い関西の霊地で、やはり金比羅等に準じて、遠方からも参詣者が絶えなかった。従って宿屋等も相当に賑わっている。私もこの由賀山へ参詣して、いよいよ岡山城下へ向けて陸地の旅を初める事となった。
これは後に聞いた話であるが、かくの如く私どもその他の船客が上陸したのは、かねてより設けられた罠《わな》に掛ったので、前にもいう通り船賃は請負であるから、もしも航路の日数が多くなれば、食料の点で損をする。そこでなるべく乗客は中途で下す方が都合が好い。中途で下りるのは自己の勝手だから、定めの船賃は返さない。かような関係から最初発航した港から次の港へ着くまでは、聊かの風波があればこれに乗じてなるべく船の動揺を烈しくし、次の港へ着いてはこの暴風ではいつ出船するか分らぬという風を見せるために、港の料理屋で酒を飲み女を買うなどという事もして、つとめて気長き態度を装い、乗客をして散々風波で苦んだ末この船にいつまで居ることかと懸念を生ずる所から、遂には船賃を無駄にしても上陸するという心を起さしめるのである。而してそれらの人を吐出すと同時に船はその日にも出帆するのであった。
岡山城下は長い町で、ちょうど五月であったから、両側の軒先に幟を立てていた。いずれも見上げるような大きな物で、中には糸を網のように編んでそれへ鯉とか人物とかを貼付けたのもあった。これは江戸にも藩地にも例のない珍らしいものであった。なおそれより進んで姫路の城下、明石の城下もやはり長い町であった。一体、街道筋に当る城下の町は通行の旅客に依て利益を得ようとするので多く一筋町になっている。また郷村へ行ってわざわざ蜿《うね》ったように道の附いている街道もある。これは附近の村をいずれも旅客の通る道筋にしたいというので、こんな道の付けようをしたのであるが、旅客においては実に迷惑千万な話である。こういう事は前にもいった川止などと共に、街道筋の藩々の為すがままに任せてあったから、いかなる大名といえどもその歩かされるままの道を歩かねばならぬのであった。
私は何でも四日目に兵庫港へ着いた。この間三泊したのだが、二つの宿は忘れて、加古川という宿だけを覚えている。その宿に泊っていると、按摩がやって来て、『御用はありませぬか。』という。私も風邪を押していたので身体がだらしいから一つ按摩をさせて見ようという気になって、させて見るとなかなか心地好いものであった。これが私の按摩の味を知った最初で、それからは旅行をすれば必ず按摩を呼ぶことにしている。今も按摩に対すればこの加古川の宿の事が連想されるのである。今一つ、忠臣蔵の桃井の家老でお馴染の名前だから記憶しているのである。
途中|斑鳩《いかるが》の駅というを過ぎた時、聖徳太子の由緒の寺があって、参りはせなかったが、かつて見た書物に、『斑鳩やとみの小川の絶えばこそ我が大君の御名は忘れじ』と歌を詠した乞丐《きっかい》が、達磨の化身であったという話があるので、ちょっと私の注意を引いた。また阿弥陀の駅で立派な建石に、『前備中守護児島範長公碑』と記し
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