で、そういう趣味がなかった。
 しかし私の実母は、死ぬ少し前に、始めて猿若《さるわか》の芝居を見た。三代目中村歌右衛門の血達磨《ちだるま》で、母が江戸へ出て来て始めてこの大芝居を見たのであった。その頃大概の芝居は直きに草双紙になって出た。母はそれを買って愛読していた。それで死んだ時に、祖母は母の棺へこの血達磨の草双紙を入れてやったと後に聞いた。かつて私のうちにただ一部あった草双紙はこうして亡き母のお伽《とぎ》に行ってしまった。
 継母も始めて田舎から出て来たものだから、一度は芝居を見せねばならぬというので、うちに嫁した年、即ち私の六つの年に、猿若二丁目の河原崎《かわらざき》座を見せた。その時継母が持って帰った、番附や鸚鵡石《おうむいし》を後に見ると、その時の狂言は八代目団十郎の児雷也《じらいや》であった。この時継母と同行したのは山本の家族であった。それから母にのみ見せて祖母などに見せないのは気の毒だというので、父は大奮発して、更に曾祖母と祖母を見せにやった。私はその時ついて行った。これが私の芝居見物の始まりであった。同伴したのは心安い医者などや、上屋敷にいた常府の婆連で、桝《ます》を二つほど買切って見た。
 三田一丁日の屋敷から猿若まで二里もある。女子供はなかなかたやすくは行かれぬ。駕籠《かご》は大変に費用がかかるので、今の汐留《しおどめ》停車場のそばにその頃並んで居た船宿で、屋根船を雇って霊岸島《れいがんじま》へ出て、それから墨田川を山谷《さんや》堀までさかのぼって、猿若に達したのである。
 私は暗いうちに起されて船に乗ったまでは覚えていたが、それから寝てしまって、目の醒めたのは、抱かれて河原崎座の中に這入る時であった。まだ灯がカヤカヤと点《つ》いていた。後に番附や鸚鵡石で知ったが、この時は一番目が嫩軍記《ふたばぐんき》、中幕勧進帳、二番目が安達原で、一ノ谷の熊谷は八代目団十郎、敦盛は後に八代目岩井半四郎になった粂三郎、相模は誰であったか今記憶せぬ。勧進帳は、富樫が八代目団十郎、弁慶は七代目団十郎、即ち海老蔵であった。海老蔵は一世一代というので、実に素晴らしい人気であった。二番目は二代目嵐璃寛が貞任と袖萩の二役を勤めた。私が小屋へ這入った時は既に始まっていて、平山ノ武者所が玉織姫を口説いてから手にかけて殺す所であった。この平山は浅尾奥山という上方役者であった。
 そのうち敦盛は馬で花道から出て来た。熊谷が扇で招きかえす。太刀打になる。それは私も古戦記や錦絵などでよく知っている事であったからよく解って、興を催して見ていると、暫くすると敦盛は甲冑を解いて、手を合せて坐った。はてなと思っていると、熊谷が後ろにまわって悲しんだ末、首を打った。盛衰記とは筋が違うので変なことだと思った。それからあの平山ノ武者所が花道のうしろから大きな声で何か怒鳴った時、私は不意を打たれて喫驚した。
 三段目になって、藤ノ方が笛を吹いていると障子にぼうっと、敦盛の影がうつッたのをよく覚えている。障子をあけたのを見るとそれは甲冑の影であったのだ。熊谷が首桶を携えて出ようとするおり、奥から義経の声がして、やがて出て来る。すると藤ノ方と相模とが驚いて左右に倒れたような姿になった時、いかにも事々しい心持がした。甲冑をぬぐと熊谷が黒い衣の坊主になっていたのも変に思った。
 勧進帳になったが、これも盛衰記にあるのと筋が違っているので、十分にはわからず、ただ延年の舞ぐらいが、少々目さきに残っている。安達原では、八幡太郎の殿様姿や、貞任の束帯姿が、いつもの甲冑と違っているのに不審をした。宗任の書く『我が国の梅の花とは……』は、最前《さいぜん》お馴染みでよく分かった。
 その頃芝居の弁当といえば幕の内といって、押抜きの飯と煮染《にしめ》と漬物で、甚だ淡白な物であったが、私は珍しく食べた。私は芝居という所へ始めて這入ったのだから、周囲にあまり人が沢山おり、むやみに騒がしいので、怖いような気がして、舞台と共に見物席の方にも絶えず気を配って、どうも落着かなかった。
 十一歳で家族一同松山へ帰ることになったが、その間に私の家族が大芝居を見たというのは、唯この各《おのお》の一回のみであった。その頃の藩士の生活は、国もとの方でも藩邸でも極めて質素なもので、そうせねば家禄では足りなかった。
 かくの如く十年間に唯一回の大芝居見物でも、家族は非常に満足し、またこれだけの事が父の大奮発であったので、まことに大芝居を見るという事は容易な事ではなかった、小芝居になると、祖母などもその後時々行って、その都度私も伴われた。
 その頃は大芝居と小芝居とは劃然とした区別があったもので、大芝居の役者は決して小芝居には出なかった。小芝居は江戸に沢山あった。私どもの屋敷から行ける所では、まず金杉《かなすぎ》
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