五郎(四代)という京都|根生《ねお》いの役者で、これが由良之助をした。あまり上手ではないとの評判であった。人気のあったのは嵐|璃※[#「王+王」、第4水準2−80−64]《りかく》(初代)で、これは若狭助、勘平、桂川ではお半を勤めた。嵐|璃寛《りかん》(二代)は判官、平右衛門、桂川の長右衛門を勤めた。片岡市蔵(二代)は師直、本蔵を勤めた。この市蔵はその頃目が殆ど見えなくなっていたそうだが、そういう様子は少しも見せなかった。女形では尾上菊次郎(初代)が顔世とお軽と長右衛門の女房お絹を勤めた。八犬伝の役割は覚えていない。
 忠臣蔵は私もほぼ筋を知っており、八犬伝はその頃読本を見ていたから面白く見た。璃※[#「王+王」、第4水準2−80−64]の若狭之助が師直に対し切歯する所は余り仰山らしいと思った。この頃璃※[#「王+王」、第4水準2−80−64]は大分年を取っていて、お半になって花道に出た時、頬や衿筋に皺が見えた。璃寛の判官は太り過ぎていたので、見慣れた錦画の判官とは違っていて、品格が無いと思った、しかし平右衛門になってはその太ってるのも似合わしかった。長右衛門になるとまた色男としては太り過ぎていて変であった。かつて猿若で平山武者所をやった浅尾奥山が帯屋の長吉をした。大きな体で前髪姿のおかし味は興があった。赤岩一角については、猫の正体を現わした際に指さきがギラギラ光っていたことと、それから源八を欺いて殺そうとする時、寝床の前に、躓かせるためにいろいろの物を並べる赤岩の門弟達の挙動とが目に残っているばかりである。
 私は読本や草双紙を知っているので、それと芝居と違うのが気になった。昼飯は茶屋へ行って、そこで普通の膳が出て食べた、厚焼の玉子のうまかった事を今も忘れぬ。夕飯はちょっとしたものであった。食事は江戸に比してすべて粗末であったが、菓子は立派に高杯《たかつき》に沢山盛られてあった。出入の商人などは時々私の家族などに面白可笑しく話をしかけ、役者の批評などもした。祖母二人はさほど芝居の趣味をわからぬので、ただ役者の顔を珍らしがって眺めていた位のことであった。
 父が京都の留守居を勤めたのは八ヶ月で、翌年の夏藩地へ帰ったので、家族が京都で芝居を見たというのは唯この一度であった。しかし私は今は新京極というその頃の誓願寺や、錦小路天神、蛸《たこ》薬師、道場、祇園の御旅には、い
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