ることはせず、そのため一生泳ぎを知らず、ちょっと艀に乗っても不安な思いをするのである。父の命とはいえこれだけは少し守り過ぎたと思っている。藩には伊東という游泳を教える家があったが、なぜかこれには徒士以下の者が多く入門していた。この伊東の游泳術は神伝流と称して二、三代前の祐根という人が開いたのだが、その後他の藩へも広まって、今も東京の或る水泳場ではこの神伝流を教えている。
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   五

 さて京都の屋敷は、高倉通り六角下ル和久屋町《わくやちょう》という所で、今まで居た岡本という京都留守居と交代して、ここに落着いた。
 留守居は各藩共に、主として禁裡御所へ対する藩の勤を落度の無いように互に相談し合っていたものである。大名は、参勤交代等の際にも、禁裡御所へ立寄ることは出来ず、稀に、将軍の代理として上京することがあるだけである。京都に対して何かすると、幕府から嫌疑を受けるという恐れもあった。ただ藩主が侍従とか少将とかになった時には、朝廷から口宣を賜わるので大《おお》ッ平《ぴ》らに献上物等もした。その他臨時に献上物をすることもあった。こういう事は、古例を守り礼儀作法を知らねば出来ず、間違があると公家方から談判をされる。そうなると、藩主が幕府に対して不首尾になる。こういう次第で、ウカと近づいてはいかず、近づくにはむつかしい作法がいるというので、藩々からはとかく京都に対しては敬遠主義を取っていた。京都の留守居は、特にこの朝廷に対する藩の関係を注意して勤めなければならなかった。その言合せのために、祇園町に会飲する習わしになっていた。こんなイキな事は父は至って不得手であるが、この役にされた訳は呑込んでいたので、交際はつとめて遣るという決心をしていた。
 京都の邸は小さくて、御殿といって君侯の居られる所も出来ていたが、ここへ来られるのはまず君侯一代に一度もあるかないかという位であるので、この御殿へ留守居が住まっていた。立派な所が我が家になったのである。それから、父がちょっと出るにも、若党二人と草履取を連れる。屋敷を出る時には、皆下座をして『お出まし』という、子供心にこれらの事は嬉しかった。
 節倹をせねばならぬというので、家族は物見遊山に出なかった。それに大之丞の次の弟、彦之助が京に上ってから胎毒を発し、頭が瘡蓋《かさぶた》だらけでお釈迦様のようになり、膿が流れ、その介
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