を願って、許しを受けて置かねばならなかった。近江の湖水では矢走《やばせ》の渡しがあるが、これを渡ることは禁ぜられていた。それは比叡颪《ひえいおろし》の危険を慮かってのことであった。私どもも勢田《せた》の長橋を渡って大津へ入込んだ。家来二人は矢走を渡りたいといって、姥ヶ餅のそばから矢走へ行ったことを覚えている。これは軽輩だから可《よ》いのだ。
東海道の所々に名物がある。しかし一行は節倹を主としていたので、あまりそういう物を食べなかったが、私だけは時々ねだって食べた。その中で、小吉田で桶鮓を食べたことをよく覚えている。小さな桶に鮓を入れたのを駕籠の中へ入れてもらったが、その桶が珍しかった。有名な宇津の山の十団子は、小さな堅いのが糸に通してあるのだ。これは堅くて食べられなかった。
小夜の中山の夜泣石の由来は、その前の宿で父が大体話してくれた。通りすがりに駕籠から見ると、石は道のまん中に転がっていて、上に南無阿弥陀仏と刻《え》りつけてあった。大名などの通り道だからというのでかたわらへ除けてみるが、石自身で元へ帰って来るとの話であった。この峠から遥に粟ヶ岳というが見えたが、そこにはかの無間《むげん》の鐘がある。それを撞けば、生前にはどんな望でもかなうが、死んでから必ず無間地獄に堕ちるという事を聞いたので、粟ヶ岳を見ただけでも怖しく思った。夜泣石と無間の鐘との由来は刷物になっていた。また『刃の雉』というのも刷物になっていた。これは昔或る武士が剣の如き尾羽をもった怪鳥を射殺した話であった。
矢矧《やはぎ》の橋の長いには驚かされた。それを渡ると、浄瑠璃姫の古跡があって、そこに十王堂があった。私はかつて見た錦画の、姫が琴をひき、牛若が笛を吹いている処を思い出した。
大津に入るあたりで三上山を見た。彼の田原藤太が射た大|蜈蚣《むかで》の住みかだと思うと、黒く茂《しげっ》た山の様を物凄く感じた。
さて一行はいよいよ伏見に着いた。京都へはまわりになるから立寄らない。伏見には藩の用達や定宿があるので、そこに落着き、今まで乗った駕籠を棄て値で売払い、一挺の切棒駕籠だけは残して置いた。それから三十石を一艘借切って、駕籠や荷物と一所に乗込んで淀川を下った、枚方《ひらかた》へ来ると『食らわんか舟』がやって来て、わざと客を罵りながら食い物を売る。私は餅などを買ってもらった。下り船は左右の舟ば
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