者となり、東京へ来ても文部省で教育上の調査を為し、なお松山学生の寄宿舎の監督をして、これが四十余年にもなっているが、人々の幇助を得て幸に大いなる失墜もなかった、しかるに今日かかる盛大なる歓迎を受くるというは望外の事である。が、これは全く私が七十一歳まで長寿を保ってまだ多少働いているという事に同情を寄せられたので、一面からいえば養老の恩典である、養老の典とすれば、私からいうと如何だが、また郷里の美事である、さすれば今後は、私以上に郷里のために力を致した老人に対してもこの典を挙げてもらいたい、そして私はいわゆる『自隗始』の心得でこの歓迎を受けて置くというような事を述べて置いた。それから多くの人が起って来て盃の取やりをされたが、そう酔払っても困るから、多くは吸物椀へ翻して、よき頃を見計って妻や親戚と共に退席した。
この外郷里の青年のために設けられた、松山同郷会より招かれて、多くの青年少年のために訓諭をした事がある。また伊予史談会というが、私の郷地の老人であるのみならず、東京では史談会の幹事でもあるから、何か話しをせよという事で、これは田内栄三郎氏の宅の楼上で開かれた。そこで私のいったのは、凡て人間として歴史は知らねばならぬ、横に空間の智識を広めると共に縦に時間の智識を伸ばすという事は、必然的のもので、歴史を知らねば、人間の一方面が欠けているのだ、しかるに今の若い者は、西洋辺りの事物は研究するが、わが生れた、日本の歴史はそっちのけにしている。それは不都合じゃないかという事から説き起して、それから私の出合った維新前後の事件や、なお人から聞いた事件を雑えて、一場の責を塞いで置いた。この外にも、学校連中が私が旧来の関係もあるので、会を催して話しを聞きたいと需められたが、婿の一遊が私をいたわってそれを断ってしまった。私はお喋り好きだから、遣ってもよいと思ったのだがそれは機会を失った。それから他の会では、旧友会というのが催されて、多くは明教館の同窓で少年の昔を話し合ったのは特種の愉快があった。俳句会としては、柳原極堂氏が主催で私の檀那たる正宗寺で一回あったが、随分多数の人であった。私はこの席では最近の句風の変調を起した事に話し及んで、これも西洋の文学侵入に伴う結果だから、別に咎めるにも及ばん、私の見解からもっぱら娯楽的に俳句を扱うのだけれども、それはそれ、これはこれで、各作りたい句
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