特に私の古稀を祝って遣ろうとの事で、やはり子規氏の旧庵でそれを催おしてくれられた。その時の中村不折氏の書いた私の肖像は表装までしてもらっている。尤もその肖像の体勢が、私よりも不折氏の方に肖《に》ているという事はその席上での笑柄に上って、少数ながら面白い会であった。それから、郷地の松山の知人達においても、私の古稀に達したということを聞いて高浜近傍の梅信寺という寺の座敷を借りて祝宴を開いて下さった。暑中で殊に伝染病の行われていたにもかかわらず、なかなか大勢集まって、私の娘婿の山路一遊(師範学校長)を、私の代りに主賓として饗応され、なお席上の揮毫の合作や署名の大幅を贈ってくれられたのは、私の嬉しく思う所である。
私の七十歳の年はこれだけで終って、いよいよ七十一歳となった頃、かつて寄宿舎に居た、勝田主計氏和田昌訓氏が発企して多くは旧寄宿生であった人々と、それに同郷の先輩数人を加えて、醵出された金を以て私の寿碑を郷地の道後の公園に建てらるる事になった。これは主として旧寄宿生というのであったから、わざと広くはこの事を及ぼされなかったようである。それが段々と運んで、この年の九月に竣工したので、その除幕式をするから、私に松山へ来いという事になった。これまでも郷地の人からは度々来い来いといわれたのだが、私は前にもいった如く、新聞や雑誌で多くの俳事を担当しているし、また旅行という事を余り好まぬ方なので、その好意は辱《かたじけの》う思いながらも、いつも辞退してばかりいた。しかし今度は寿碑も建てて下さったという訳から、以前の関係もあるし、是非とも帰郷せねばならぬと決心した。そうして妻も殆ど三十年前に松山を見たのみで、どうか今一度見たいという希望もあったから、これをも同伴する事になった。尤も同郷人の歓迎も私夫妻共にという事であったので、そこで九月の十六日老夫妻が始めて一等汽車に乗ってまず京都まで行った。ここには妻からは姪にあたり、私からは従弟の娘にあたる、木村愛子というが居る、この夫は利明といって、これも同郷人だが、西陣の織物の模様を描く絵工であるので、久しく京都に住んでいるのである。そこへ私どもは一泊して、その晩は京都の同郷人の歓迎会に出席した。この会は肉弾の著述で有名な桜井忠温氏が頭で、その他は木村氏の外皆生面であった。尤も中堀貞五郎氏はその祖父や父や兄なる人は私の旧知であったのだ。会
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