れども先祖の嫌疑を私の代に至って、本物に吉利支丹宗を家族に奉ぜしむるに至ったのは、時世の変遷とはいえちょっと可笑しい。
 私が単純なる俳句の選者生活になって後は、別に責任というほどのものも無く、段々とこの生活では多忙にもなったけれど、今までの如く不得手な役目を担うというのでないから、多忙の中にも自ら興味をもつ事になった。そして、私は俳句の上もいつの間にか古顔で大家という事になったので、若い人には幾らか立《たて》てもらうし、広く各地方からも出京する俳人連の訪問を受けるから、それだけ私も位地が出来、自分ながら勢力を持ったような感じが出来た。それと共に俳句の上は勿論予て持っている哲学上の見識もいよいよ鍛練せらるる事になって、今日では、誰の前でもこの点なら憚ず主張するという自信が出来た。それから私が多少名を知らるると共に、俳句の揮毫を頼まるる事も段々と多くなって、それが単に句を書くのみでも愛嬌がないと思って、子供の時分から多少、自己流に描きなぐっていた画のようなものを併せて描く事になって、これも素人画としていくらかの人に賞翫せらるる事にもなった。尤も最初から人物ならどうかこうか形が出来るけれども山水や花鳥やその他の景色画となっては少しも描けぬ。また習って見ようとも思わぬので、此方は全く駄目である。文人がよく描く四君子などでも一枝一葉さえも真似する事が出来ぬ。が、こんな揮毫でも物好きな人には需めらるるので、これに関する収入が選句以外に出来て、爾来物価が騰貴しつつあるにかかわらず、まだ今日でも、どうかこうか活計を立てている。それから、大正六年に今までに住んでいた家屋は余りに狭くて不便なと、妻などに訴えらるるので、終に転宅を思い立って、この時も随分彼方此方と探した末、現今の麻布区|笄《こうがい》町百七十五番地へ住む事になった。この家は前と比べると聊か間数も殖えて勝手もよいし、前後に庭の空地もあるので、妻などにも多少満足させている。殊に借家難の声が盛んになると共にいよいよこの家屋は易《か》わらず長く住みたいと思う事になった。今もこの話をしつつ、南向きの障子から射す、晴日を浴びて、私の寒さ嫌いも大分暖気を覚えるのだ。私は今もいった如くやかましい責任こそ免れたけれど、今とても全く職務を持っていないのではない。それは明治廿二年頃から久松家の御家事に関する諮問員を勤めていて毎年の予算決算か
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