これからは少し下調べをして来ることにしょうといったら、子規氏は憤然として「先生そんな月並をしちゃいけませぬ」と喝破した。私もなるほどと合点していよいよ無頓着に講義することになった。例えば、座中に、幾人か並んでいて、輪番に講義をする、けれども、我が講義に当る句は知れていても故意と見ない、いよいよ順が来て、その句を朗読し終るや否直に解義する。即ち朗読中にその意味を考えるのである。あたかも昔の題を得てセリ吟すると同じような様子である。が、こうして行くと句の趣味には、むしろ活き活きしたものを捉えてちょっと興味もあるものだ。誤っていたことは他から正す、それに不服があれば飽くまで強弁する。そうして故事来歴等は、私が老人だけに比較的に多く知っていたから、これは得意としてそれを説き聞かせる。要するに心易い同士の議論だから、負けても勝っても結局笑いに落ちる。他の詞でいえば、楽屋落ちの蕪村の句話しであったのだ。けれどもそれをホトトギスに臆面もなく載せた結果は、読者から時々誤謬を指摘したり、あるいは他の意見を報知して来る。これも我々の心得にもなり、また興味であるから、一々それは次号へ載せていたのである。しかるにこの蕪村輪講がその後単行本となり、世間でも多く見ることになったので、更にわれわれの講義に対して非難や注意やあるいは悪口を寄せらるる者さえ出来た。なお蕪村の句が普通教育の教科書へも載ることになったので、学校の先生の参考としても我々の蕪村句集輪講が用いらるることとなった。この点などは私どもの殊に恐縮する所である。けれども元々内輪の団欒の雑談的のものであったのだから、こう世間的のものとなるのは、われわれの意外のみならず、地下の子規氏もさぞ苦笑していることであろう。就中この頃「蕪村夢物語」とかいう或る人の著書が出て、この我々の講義を非難もし是正もして居らるるそうだ。これは今更ながら我々がためには良友だと思っているが、しかし我々と意見を異にする点も少くなかろうから、それらの弁解は私が他日あたるつもりである。聞けばまだ、春の部と夏の部ばかりだそうだから、多忙な私はいっそ満尾して後それをやろうかとも思っている。かように興味中心でやった蕪村講義が、真面目な批評に上ることになった、その恐縮の言い訳でもないが、近来ホトトギス発行所の俳談会では、引続いて小学、中学の教科書に載っている俳句の批評に従事して
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