も出来た、即ち先進者では高橋健三氏、それから岡倉覚三氏木場貞長氏沢柳政太郎氏渡辺董之助氏などである。こんな事で私は最《も》う独り舞台で働くという訳でもなく、また唯一の知己たる、江木千之氏は内務省へ転任してしまったので、何だか寂寞をも感じ、いっその事辞職して閑散の身分になり、精神の保養かたがた寄宿舎の監督位を勤めようという気になった。而してもう恩給年限に達していたから、その給与を受くれば、その頃は物価も安く、監督役宅に住えば家賃もいらぬという訳なので、遂に決心して辞職をした。辻次官は頗る留められたし、大臣は芳川顕正《よしかわあきまさ》氏であったが、これも多少厚意を寄せられたのであるけれども、私は役人生活が嫌となるともう一日も勤める気がなくなって、遂に止める事になった。これは廿四年四月である。
 それ以来私は寄宿舎の監督のみを職務としていたが、そう日々の用向きはないので、それからは運動のため日々当てもなく東京市中及び近郊を散歩する事を始めた。而して東京市の彩色の無い絵図面を持っていたのを、散歩の度に通った道路に朱を引きそのため用もない道や、わざわざ廻り道などもして、段々と図面が赤くなるのを楽しみにしていた。また近在の宮や寺や名所などもあまねく廻ったから、今日でも、これらに知らぬ所はない。しかのみならず、寄宿生には時々遠足会という事を催すので、それも私が率先して熟知の名所古蹟等へ伴う事にした。私は身体の人よりも弱いにかかわらず、足だけは幸に達者なので、この書生を率いた時などは、別して痩せ我慢の健足に誇って見せた事である。
 寄宿舎に居る生徒は各々自分の目的に従って学校へ通っていたので、法律や政治や経済やまた文学などと各方面の生徒も居たのだが、正岡子規氏とか、河東碧梧桐《かわひがしへきごとう》氏の実兄竹村黄塔氏とかは文学専門であって、なお漢学も修めていたから、私は時々この二人と共に漢詩を作り合う事もあった。また同行して郊外へ散歩する事もあって、この際は漢詩の外、七五体の新体詩見たようなものを、互に附け合うような事もして、暢気な遊びをした、これは言志集といって、今も数冊残っている。尤も子規氏はその少し以前から俳句を作り始めていたので、黄塔氏や私もその真似をする事になって、今で見れば変なものだが、連句みたようなものを作った事もある。が、私はまだ本気に俳句を作ろうという気もなかっ
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