前後して他の人々も駈けつけて、官舎は忽ち大騒ぎとなった。而して森氏はその夜遂に亡くなられたがこの終焉の記録等も、辻次官の命で私が筆を執った。森氏は英国駐在の公使を久しく勤めて居られたにもかかわらず、普通教育は全く独乙《ドイツ》式で、挙国兵の基としてまず高等及尋常の師範学校に兵式体操を行わしめ、順次に小学校は勿論、中学校等にも兵式体操を行わしめ、なお一般の学校に人格気質の養成という点を厚く注意せしめられ、またこれまでは他省に属せし工科農科の大学や専門学校を、総て文部省の管理に移し、諸事統一的経済的に学政を敷かれつつあったのだが、一朝この凶変の起ったのは実に惜しい事であった。
遡っていうが、私が東京へ転任した翌年に次男を挙げて、惟行と命《なづ》けた。十九年には三女を挙げてらくと命けた。
私も既に月給は百円ずつ貰っていたので、その頃の物価ではこの金額でもやや寛ろぎが出来るはずだが、夫婦共に会計上に拙いので、他の同僚の如く人力車夫を抱える事も出来ず、雇い車の車夫にやっと看板の仕着せ位をして済ませ、文部省の弁当も判任官以来五銭弁当で甘んじていた。借家は最初の上六番町から下六番へ移り大分奮発して九円五十銭の家賃を払う事になった。こんな生活だけれども月給ではどうかすると不足を告げ、終に借金が出来るようになったので、一つそれらの整理をせねばならぬと思い付いて、廿一年に妻と相談の上彼に次女と次男とを連れさせて一時郷里の松山へ赴かせた。この少し以前、三女らくは実扶的利亜《ジフテリア》に罹って三歳で亡《なく》なっていた。そこで長女順は桜井女学校へ寄宿せしめ、私は長男健行を携えて神田の三崎町に下宿した。この際、従弟で浅井から養子に行った天岸一順というが学問のため出京していたのでこれもこの下宿へ同寓せしめることにした。知人などからは、年を取って官吏生活をしていながら下宿するのは可笑しいじゃないかといったけれども、私は平気でいた。この頃であった、独逸人のスピンネル氏が、基督教を日本へ弘めるために来てこの人は哲学にもなかなか達していたので、その門人で居た同郷人の三並良氏の通弁で度々宗教話を聞いたが、やはり私の意には満足しなかった。廿二年には暑中休暇を貰って松山の妻子を省みた。十三年に東京へ来てから十年ぶりであったので、故郷とはいえ、諸事珍らしくもあり、また人々にも歓迎された。それから翌廿三年
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