縮だと考え、十七年の二月、上六番町へ家を借りて移転した。この頃は長女の順はもう小学校も終る頃になっていたので、近傍の桜井女学校へ入学させた。校長は、今は誰れにも知られている矢島|楫子《かじこ》刀自であったので、宗教上の教育も受ける事になり、また私の妻も時々説教を聞く事になって、終に母子共に洗礼を受ける事になった。私は元来は漢学をしたのであるが、まさか孔子や孟子の説を唯一に信ずる事も出来ずその後は西洋の翻訳書などを見て、多少智識を博めたので、いよいよ信仰というものはなくなって、むしろ無宗教という事を自分ながら得意としていた。が、一般の人間は何らかの宗教心のあるのがよいと思い、就中婦女子はそれが必要だと考えていたので、右の如く妻や娘が洗礼を受けたいといった時も、快く承諾して、むしろそれを奨励したのである。而してよく先方から招かるるので、私も時々は説教を聞きに行って、その度に説教者にぶつかって種々と議論もした。就中奥野某氏といって我国では最初の基督信者で、彼のバイブルの翻訳者である、彼の人などとも度々議論した。また英人のイーストレーキ氏などとも議論をした事がある。その頃島田三郎氏も多少基督教に傾いていたので、これとも出逢って話をした事であった。そんな事から私は、基督教を一通りは調べて見たいと思って、同志社出身では横井時雄氏、金森|通倫《つうりん》氏、小崎弘道《こざきひろみち》氏などにも話を聞いた、これは組合教会の方だが、また一致教会の植村正久氏へは就中しばしば行って議論を闘わした。また仏教の方でも島地黙雷《しまぢもくらい》氏に話を聞こうとしたが、これは余り私どもの如き者を寄せ付けぬ癖があるので、若手の方で平松理英氏北条祐賢氏などとしばしば出逢って話をした。その他村上|専精《せんじょう》氏吉谷覚寿氏黒田真洞氏にも面会した事がある。それから佐治実然氏はもっとも好い議論敵で、なお大内|青巒《せいらん》氏にも交際した。かように基督教も仏教も研究するだけはして見たのだが、それが根本的に私の意に適せず、或る疑点は誰れに質問しても明答を得ない。そこで、自分でバイブルも見るし、仏経も随分読んで見たが、やはり充分に満足が出来ない。そこで今度は、哲学の方面を、翻訳書ではあるが、古今に亘って調べて見たが、これもこの説ならというほどの満足が出来ない。因って私は今日も宗教は勿論、哲学上に一つも同意
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