を営んだのである。
そこで前に立戻って、岩村県令は一度地方官会議からは帰県されたが、在京中にモウ内々の話しも済んでいたのであったろう、政府から、内務省の戸籍局長に転任を命ぜられた。我が県の主立った市民は民権主義であったから、人望も同氏に帰していたので、この転任は非常に失望したけれども仕方がない。それで三津浜出船の時などは、旧藩主が江戸へ出発する時、御曳船といって数多の小舟が印の旗を立てて御船唄というを歌いながら、沖まで漕ぎ連れて藩主の船を送ったものだが、その例を再び用いて、盛んに県令の出発を送ったので、岩村氏も頗る満足せられた。
今回県令の更迭は今もいう如く岩村氏が民権主義に傾くという事からであるから、新来の県令は漢学者で保守主義である。関新平氏というが拝命された。この人は佐賀人でこれまでは茨城県令をしていて、水戸人とは気風が会っていたから、この度の転任と共に茨城県人を数人連れて来て、課長や重なる県官の椅子は段々とそれらに与えた。そうして今まで岩村氏に親しかった者は氏の周旋で内務省へ転任した。それは衛生課長であった伊佐庭如矢氏、勧業課長であった藤野漸氏、その他伊藤鼎氏、辰川為次郎氏、これは皆松山人で、また他から来ていて庶務課長であった南挺三氏もその一行であった。それから租税課長の竹場好明氏、会計課長の篠崎承弼氏は宇和島人であったが、これは留任した。一体岩村県令の民権主義を最も賛成して、その他常に出入りをして県令と親しかった者は我松山人なので、その訳から皆転任せしめられたのである。そこで私だが、前にもいった如く、最初、その頃では異数の抜擢に逢って、学務課で働く事が出来、肝付兼弘氏が他へ転任してからは、学務課長を命ぜられていたのであるが、私の性として新らしい事新らしい事と知識を拡めて行く、そこで明治の始めこそ、福沢風におだてられ、また民約論や三権分立論などを読んで、自由とか民権とかを神の御託宣のように思っていたのであるが、その後ブルンチュリーの国法汎論なども読み、また文部省雑誌といって西洋の新らしい論説を載せたものを読んで、段々と独逸《ドイツ》の国家主義を知る事になったから、余りに突飛な民権主義は同意せられないようになって来た。そんな事で、草間時福氏が変則中学校に拠って福沢風の民権主義を唱うるに至っても、私は学務の当局者でありながら、それほど熱心に賛成せない。そうし
前へ
次へ
全199ページ中154ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング