で、これも籐椅子に腰をかけていた、陛下にも開会式と閉会式とに臨幸があって勅語を賜わった外に、一回会議を聴聞あらせらるるために臨幸があって、一時間余も私どもは天顔に咫尺《しせき》したのである。玉坐は正面の少し高い所に設けられ、卓には錦が掛けてあった。その後ろには、宮方始め、三条太政大臣、その他の大官が着席して居られた。陛下はまだ三十歳位の御年齢でおわしたが勅語は朗々としていかにも確かな御声であった。殊に一時間余も御臨席あらせられた際、玉体は勿論龍顔に少しの御動きもなく、殆んど目じろきさえも遊ばされなかったのは、私どもの一層恐れ入った事である。しかるに新聞記者あたりは、筆記の都合に依ると、椅子を下りて長靴のまま膝を組んで筆記するもあった。我々どもも泥靴のままで控えている。各地方長官さえも、モーニングコート、背広などを勝手に着ていて、フロッコートを着ている者は稀れであった。靴は多くゴム靴で随分半靴などもあった。ましてや我々どもの服はいよいよ区々《まちまち》で、私はこの上京後新調したモーニングを着ていた。今日と違って、宮内省辺りでもそれに何らの干渉もなかった。議題はもっぱら地方の施設に関する事件であったが、その頃は各地方官も、随分若やいだ意見を述べて、あるいは故意に主務省の議案に反対するかとまで思わるるものもあった。この答弁に当る番外員は、内務権大書記官矢野文雄、大蔵大書記官尾崎某氏であって、矢野氏の弁は論理法に適っていてなかなかうまかった。そうして、地方官の中にも自然に政府党に傾く者と、在野党に傾く者との区別が暗々裡にあったように思われた。まず民権党では、我岩村県令や、高知の北垣県令、千葉の柴原県令などで、官権党は京都の植村府知事、神奈川の野村県令などであった。それから鹿児島からは、県令代理として渡辺大書記官が出ていた。即ち千秋氏である。この他に藤村山梨県令とか、高崎岡山県令とかもよく口を利いた。また東京府知事の松田道之氏は中でも先輩顔をしていて、なるべく議論の纏まるよう注意したようである。そこで議長は河野敏鎌氏であるから、高知人でもあるし、その頃は民権主義になっていたのだが、職務が職務である故公平に扱って、弁舌も明瞭であった。
私は明治九年の師範学校長を雇いに来た時も岩村県令から視察して来いと言われたので、千葉県へ往って師範学校や中学校を見せてもらったが、また今回も同
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