先代左団次の伊達安芸、荒木和助、大谷門蔵(後に馬十)の酒井雅楽頭、大阪から来た嵐三右衛門の愛妾高尾であった。私はこんな新作物は始めてであるし役者も揃っていたので面白く見物した。この度の旅行は末弟の克家を随行せしめていたので、これにも見せて喜ばした。そんな事で平気で滞京しているうちに、今一人の弟の薬丸兼三が九州辺に居て或る悪竦[#「悪竦」はママ]な会社の手先に使われて監獄に入ったという事を聞いたので、まず克家を帰県させ、それから私も校長の雇入れが極ったので、実は公務もそこそこに心配して帰県した。これは後の事だが、右の兼三の事件は幸に刑法にも触れずに放免されたが、私はこの事を非常に怒って、養家に対しても済まぬといって終に先方に談合して離縁してもらった。そうしてこの際兼三には遥の祖先が一時称した宇野姓を名乗らせた。またこの際から私は彼と義絶して暫く書信もせなかった。がその後彼は函館へ行って税関の雇員になっていたが、折節米国の金満家の娘が病死して、その嫁入の手当てとして別に積んでいた金を、宗教の宣伝費に充てたいという希望から、函館にその頃までなかった女学校を設ける費用に寄附した。そうしてモウ弟も大分真面目になっていたのでその教頭となった。そうして私も兄弟互の通信をする事になった。そこで何か好い校名を附けてくれといって来たのでその資金の来歴に依って、私は遺愛女学校と名を与えた。この学校は今でも彼の地に存在している。爾来卅年ばかり兼三は教頭を勤めていたが、かような教会学校では老後を保護してくれる見込もないので、遂に東京に帰って来て他に生計を求めたけれどやはり適当な事業もないので、旧友の押川方義氏や上代益男氏等の周旋に依って、更に布哇《ハワイ》へ移住し、児童に日本語を教える学校の教師となった。その妻は会津人で函館の師範学校を卒業しているから、夫婦共稼ぎで学校を受持っている。そうして三人あった娘の二人は布哇で、日本人の夫を持っている。が、最近米国の排日主義で、日本語の学校は非常に圧迫を受けているようだから、兼三も定めし困難している事であろう。これは随分先に走った話であるが、ついでながらいって置く。
前へ立戻って、右の如く兼三は薬丸家より離縁させたが、私は弟に代って薬丸家の事は出来るだけ世話をするといってその頃居た祖母と、弟の妻であった女とは相変らず私の家屋続きへそのままに同居させ
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