。それから可笑しいのは最初廻り道をしても、名所古跡を訪いたいと思ったのが、人力に乗って駈け出させては、そんな事をして時間を費すのが惜しくなって、何所一つ道寄りをせなかった。要するに、山水その他の見物は私の性質として余り好まない。俳句では随分、景色等の事も詠むが、多くは理想的に描くのである。こんな風だから、まだ俳句を始めぬその頃の私では、かく無風流に旅行して終った事も不思議はないのである。一つ記憶に残っているのは、大阪の或る宿へ着いた時、一番東京風を見せるつもりで、女中に二朱ばかりの祝儀を与えた。するとこの地ではそんな習慣がない所より、宿に居る女中が、後から後から出て来て、それにも遣らずには済まないから、大分散財をした事であった。海路はもう内海通いの汽船があったけれども、凡てが中国沿岸から、九州方面へ通航するばかりで、四国路は多度津の金比羅詣りに便する外どこへも寄らない。従ってわが郷里の三津の浜へは無論寄らないのだが、特に頼むとちょっと着けてはくれるという事を聞いたので、遂に何とか丸という船に便乗した。乗客も随分多くて、中には東京帰りの九州書生などもいて、詩吟や相撲甚句などを唄って随分騒しかった。三津の浜へ着いたのは、夜半であったが、私と今一人の客を艀《はしけ》へ乗せて、それが港内へまで廻るのが面倒だからといって、波止の石垣を外から登らせて追い上げられた。少し不平であったけれども、もともと特別の便乗なのだから仕方がない。その夜は三津の浜に一泊して翌日帰宅した。
私の宅は以前の如く堀の内の士族邸だが、召使なども凡て暇をやって、家族で炊事もしている。父は最前もいった如く邸内の畠打をしていたが、その外綿繰りといって、実の交った綿を小さな器械を廻してそれを抜き、木綿糸を績《つむ》ぐ下地をする賃仕事がある、それをセッセとしていた。昨日まで家老に準ずる重職をしていたものが、そんな有様なのには、私も少し驚いた。聞いて見ると今の平均禄では、家内の喰う事がやっとである、そこで、東京から帰っている弟の大之丞にせめては洋学の修業を継続させたいと思って、幸まだ旧藩以来の先生が居るから、そこへ通わせる、月謝が月々旧藩札五十匁(今の二十五銭)要る、それをこの賃仕事でこしらえるのだといった。私もちょっと胸がつぶれたから、自分でも何か稼がねばならぬと決心した。以前にも度々いったが、父は名利に恬淡で
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