、これまでの大少参事の外、大属少属、史生、庁掌、を置かれて、なお、藩知事の職権も制限せられ、或る事件以上は一々朝廷の指揮を仰がねばならぬという事になった。そこで、藩政もこれに準じて大改革を行わねばならぬという事になって、それには、私の父などはモウ局に当る気がないので、辞職する事になり、その他門閥家なども、文武両職とも段々と辞職する事になった。そうして引続き大参事でいたのは菅良弼氏鈴木重遠氏の二人、それへ新に抜擢されたのは山本忠彰と菅伝氏が権大参事、小林信近氏と長屋忠明氏が少参事、それから野中久徴氏東条○○氏と私が権少参事になった。以上の参事がまず藩政の内閣のようなものである。それ以下の大少属が、庶務、会計、治農、軍務、刑法、学校というように分科して事務を扱ったのだ。尤も少参事は正権共に一般の藩政に関係しつつ、また右にいった分科を主管する事になっていた。そこで、小林は会計、長屋は治農、野中は刑法、東条は軍務、私は学校を引受ける事になったので、藩の学政は思う存分に改革する機会を得た。予てのハイカラ病はいよいよ発作して従来の学規も教則もまた教官連をも凡てを廃止した。かつてもいった如く、藩学校の明教館は文政の頃我藩の名君定通公が創始せられたもので、学則の第一に『学は程朱に従ふべき事』とあったのだが、私はそれを取り除けて東京の大学の学規の『道の体たるや物として在らざるなく、時として存せざるなし』云々の文を掲げて、学科は普通科、皇典科、洋典科、医療科、算数科というを置いて、その普通科が実は漢学を主として日本の在来の漢籍やその他西洋の翻訳書等を教授させたのである。そうして、以前私どもが教えを受けた、老先生は凡てを免黜《めんちゅつ》して、比較的年の若くて多少西洋の話しも判りそうな者だけを教官に残し、その他は、私の同年輩あるいはそれ以下の聞かじりのハイカラ書生などを用いた。尤も皇典科は藩地で多少それを研究していた神官連を用い、医療科は医者のいくらか学理を心得ているものを用い、算数科も藩地でも名を取っている数学者を用いた。それから洋典科は藩地では人を得られぬので、その頃は慶応義塾が多くの洋学生を養成していたから、そこへ懸合って稲垣銀治氏というを雇った。その後尚銀治氏の紹介で稲葉犀五郎、中村田吉両氏も雇った。尤も稲垣氏でさえ慶応義塾でピネオの文典とか、カッケンポスの万国史とかミッチェルの
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