触れるかと思って、冷々したが、竿の操りがなかなか巧いのでそんな虞れもない。遂には安心して折からの日和で日向ぼっこをして睡りに入った。この難所は三里余もあったそうだが、それから川幅も広く平流となって、何らの危険もなくなったと共に平凡な景色となった。ただ或る時犬山城が左岸に櫓や石垣を聳えさせているのが目を引いたのみであった。この日は桑名へ着してまた陸路を貪って四日市へ泊った。翌日は追分駅で、例の饅頭をたらふく喰って、これも少し腹を損じたが、これからいよいよ参宮道で周囲には菜種の花が満開である。季節柄田舎からの参宮者も多いので、数々の講中が伊勢音頭を唄いながら、男女うち混じて歩いている。かつては絵で見ていた、三宝荒神、即ち一匹の馬に左右へ炬燵櫓を逆さにしたようなものを付けて三人の女や子供が乗っているのを実際に見た。津の駅では、問屋の役人が私の藩主と津の藩主と親戚であるという事で特に叮嚀に扱ってくれたのがちょっと嬉しかった。山田へ着いた日直に外宮内宮を参拝して、妙見町に止宿したが、その晩奮発して、古市へ登楼した。しかし古市踊りは金がかかるので見ずに終った。翌日は雨が降ったのでやはり流連して、三日目に伊賀を経て奈良に達した。この道は伊賀越と阿保越の二つがあるが、路の便から阿保越を取ったので、例の仇討の古跡は見ずに終った。奈良では猿沢池の傍に止宿して、翌日、春日の社や大仏その他を見物した。猿沢の池畔の、采女の社が池の方を向いて背面に鳥居の建っているのもちょっと珍らしかった。鹿はうるさいほどそこらを歩いていた、若草山は折からの若草で青々としていたけれども登らずに終った。奈良を立って路順なら直に大阪へ行くのであるが、ついでに京都も見たいという者があるので、伏見から道を転じて京都へ入って、三条橋畔の宿屋へ投じた。その翌日は祇園、清水、智恩院大仏、東福寺等を見物した。その頃の高倉の藩邸には留守居を改めて邸監といって、佐治斎宮氏というが住んでいたので、そこへも往って面会したが、我々は東京で文明の新空気を吸っているという誇りから、大気焔を吐いたので、先輩ではあれど彼れは驚いて沈黙していた。それから大阪へ下って、ここの邸監は皆川武太夫氏がいたが、ここでも気焔を吐いた末、一行には最《も》う旅費が尽きていたので、各々旅費の借用を申込んだので、皆川氏は少し渋面作ったが終にいくばくかを流用してくれた
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