事をして日を消しているのは無益だという説が起って、藩の出張員に向って、いっそ学問修業の命をやめて帰藩させてもらいたいといい出し、その許可を得ていよいよ東京を出発する事になった。尤も錦織左馬太郎は、先へ帰ったので、残っている由井弁三郎、山川八弥、杉浦慎一郎と共に私は三月朔日に東京を出発する事になった。そうしてこの帰途は東海道も陳腐だから、木曾海道を通って、それから伊勢参宮や奈良見物をして見ようといい合ったので、発足の日は板橋駅に泊り、それから段々と予定の道中をした。まだ記憶に残っているのは、妙義山が左り手に当って突兀と聳えていた事と、碓氷《うすい》峠を上るのに急坂でなかなか骨の折れた事などである。この峠を登る時、牛曳きが皆子供で、一人が十頭余の牛を追い立てつつ下って来る、その頃の事であるから路巾は狭く、最初はなんだか角で突かれそうで怖かったが、別段な事もなく峠へ達した。峠の茶屋では力餅というを売っている、私等の一行もそれを喰って力を得た。浅間山の麓をめぐる時はそのあたりが渺々たる曠原で、かつて噴火した時の大岩石がそこにもここにも転がっている、仰いでその頂を見ると一抹の烟が空に漂っている、その光景をちょっと珍らしく思った。それから随分疲れたのは和田峠を越える時で、別に急坂ではないが爪先上りの登り道が長いので一行も段々とへたばった。峠に立て場があって、赤飯を売っている、それを疲れた余りたらふく喰って少し腹を痛めた。この立て場は往年筑波山の落人で有名なる藤田小四郎が休息して、『将軍酔臥未全醒』、と詠じて壁に記したとの言伝えがあるが、それは後に聞いたので、私は見ずにしまった。それからこの峠を下ると諏訪である。温泉もあるが入らずに通った。ただ諏訪湖の向うに富士のうしろ姿を眺めた景色は今も目に残っている。それから或る駅に泊った時夕飯の菜に、丸く小さい二寸ばかりのものを幾個か皿に盛って出した。ちょっと見てなんだか判らん、かつて聞く所では、木曾の山中の人は蛇を喰うというから、この丸い長いものもあるいは蛇の付焼きではなかろうかと思って、私ども一行は互に顔を見合わせて箸を付け得なかった。そこで給仕の女に聞いて見ると、なんの事だ、チクワであった。喰っては豆腐だか何だか判らぬような味だが、これでも木曾山中では珍味としていたものらしい。宮越駅辺には路傍に旭将軍義仲の碑が建っていて、その兵を挙ぐ
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