になった。
その頃の在寮生中にも全く勉強家がないのでもない。私の寮の近傍に居たものでは、前にいった藤田九万氏高橋二郎氏などは随分勉強していたようだ。また文章家の於保武十氏とか詩人で村上珍休氏等とも往来してよく話し合った。また岩崎小次郎氏は大村の藩兵に加って奥羽から帰りだちというので、なかなかの元気で、誰かの書いた和文のナポレオン伝を高声に読んでいたのが今も耳に残っている。また高知の雨宮真澄氏谷新助氏等は随分乱暴家であって、就中谷氏は短刀を抜いて少年を脅迫したことなどもあった。その他戦争戻りの人も少なくなかったが、就中薩州人が多くて、それは皆散髪であったから頗る目に立った。何とかいった人は片腕を失っていた。要するに戦争上りのことでもあるから、人気は一般に荒っぽく、不羈卓犖《ふきたくらく》というようなことを尚《たっと》ぶので、それだけ勉強するものは因循党と見做された。一体に多くの学生は昼間は外出して、懐の有無により大小の料理屋へ行って酒を飲み芸者を呼ぶ。また吉原や深川や品川へ登楼もする。そうして帰って来て気焔を揚げるのが誇りという風であった。私の入寮後間もなく、藩地の明教館の学友が上京してここへ入ることになった。それは由井弁三郎氏錦織左馬太郎氏杉浦真一郎氏山川八弥氏の四人で、以前の知人の外更にこれらの人を得たので、それからは多くこの同郷人と諸方へ出掛けることになった。が、私は他の人の如く多くの酒も飲まぬから、料理屋へ行くとか登楼するとかいうことは、附合いなら別段、自動的には余りせなかった。それよりも芝居を見るのが何よりも楽みで猿若の三ヶ町即ち中村座、市村屋、守田座の変り目変り目には必ず行った。尤も書生の懐だから奢ったことは出来ないが、それでもその頃は、桟敷は勿論土間でも茶屋にかからねば這入ることが出来ぬのだから、茶屋にも馴染が出来てそこから行った。そうして土間の割座でもカ、ベ、スの三品はその頃でも買わねばならぬのだから、それを買って土間の一人分と合せて、一分二朱位を払った。その頃われわれの藩から貰う給費は金十両であったが、太政官札が低れて[#「低れて」はママ]いたから、この札にすると十二両となるので、まず芝居だけは十分に見物することが出来た。また父からも時々送金してくれるので、私は寮生中でもまず懐の好い方であった。
芝居では中村座の座頭が以前市村羽左衛門といった尾上
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